神綺の寝室は薄暗くとも、どこか居心地の良さすら漂っていた。微かに鼻をくすぐる香水の匂いは、風見幽香の夢幻館を思い起こさせる。だが、ここには生々しい血の匂いも、悪意に満ちた怪しげな薬の気配もない。神綺という存在は、残酷な道楽とは無縁であるように思えた。アリスに向けられる純粋で盲目的な愛情は、裏を返せば、彼女自身の深い孤独と精神的な疲弊を物語っている。
(……こんなもの、いくらでもあるだろうに)
手にしたネックレスを無造作に元の場所へ戻し、無線機を取り出してちゆりへ指示を飛ばす。
「ちゆり、何も触らずに五階まで上がってきて。吹き抜けで待ち合わせよ」
『了解! 今行く! ……でも、そんな急ぐ必要あるわけ……? ――ザー――』
ノイズが走り、ちゆりの声が唐突に途切れた。
息を潜めて寝室を抜け出し、周囲の気配を探る。艶やかな石床の廊下を少し進んだ先で、階段を上ってくる二人のメイドと鉢合わせた。
「あの……少しよろしいでしょうか」
呼び止めると、二人は値踏みするような鋭い視線を向けてきた。
「神綺様の書斎へ向かうよう言われたのですが……道に迷ってしまいまして」
「新入りさん?」
メイドたちは警戒を解き、クスクスと笑い声を漏らしながら廊下の奥を指差した。
「すぐそこですよ。左側にあるお部屋です」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げる。
(……警戒されている? 何か感づかれたか?)
内心の疑念を隠し、努めて自然な声音で話題を変える。下手な嘘は避けるべきだ。
「そういえば……妖奈さんを最近見かけないのですが、どこにいらっしゃるかご存知ですか?」
「妖奈? 赤い服を着た子のこと?」
メイドの一人が、ふと怪訝な顔つきに変わる。
「……あなた、あの子を見たの?」
「いえ、私も最近姿を見ないなと……少し気になっただけです」
「北棟の地下室を掃除するように言われたって聞いたきりよ。まるで煙のように消えちゃった。お昼にも来ていなかったし……」
「そうですか……。ありがとうございます」
それだけを言い残し、背を向けて吹き抜けへと急いだ。ほどなくして、息を切らしたちゆりが階段を駆け上がってくる。
「なあ、すごかったんだよ……!」
興奮気味にまくし立てるちゆりの口を咄嗟に塞ぎ、廊下の暗がりへと引きずり込んだ。
「軍隊用の武器が山ほどあったんだ! さっきの杖を試してみたら、特定の色の弾幕が撃ててさ。設定を変えれば他の色も撃てるんだって! すごいだろ? メデアは何か見つけた?」
「ええ、この宮殿の陰謀くらいはね。だから、今は何も持ち出さない方がいいわ。神綺と直接話をしてくる」
「はあ!? 神綺って、この宮殿の……一番エラいやつだろ? 失敗したらどうすんのさ!」
「だからあんたを呼んだのよ。ほら、あそこ……」
廊下の先にある重厚な扉を顎で示す。
「これからあの部屋に入るけれど、中で何が起こるか分からない。近くで待機してちょうだい。もちろん、正体は隠したままで。ブラスターの準備も忘れないでね」
「マジで無茶言うなよ! バレたら処刑されるかもしれないのに、本気で言ってんの!?」
「本気よ。だから、すぐ逃げられるように窓を開けておいて。いざとなったら一緒に飛び降りるわよ」
「ちょ、ちょっと待って! 正気か!? 最初からあんたのこと只者じゃないと思ってたけど、まさかそこまでぶっ飛んでるとは……」
「変、かしら? 偽の招待状で大勢の人間を遺跡に誘い込んで、自分たちの星へ拉致しようとしたのは、どこの誰だったかしらね」
「だーっ、それは昔のことじゃんか……!」
ちゆりは顔を赤らめて押し黙り、やれやれと肩をすくめた。
「……わかったよ、ここで見張ってる。ついでに空気の化学組成でも調べとくさ」
ちゆりを残し、書斎の扉の前に立つ。深く息を吸い込み、意を決して中へと足を踏み入れた。
山積みにされた書類の向こう側、立派な机の前に神綺が腰を下ろしていた。視線の先にあるのは、一枚の鉛筆画。そこには、アリスと抱き合う神綺自身の姿が描かれている。
「失礼いたします。少し、お話をお伺いしてもよろしいでしょうか」
深く頭を下げる。
神綺はゆっくりと視線を上げ、穏やかな微笑みを浮かべた。
「ええ、どうぞ。私は何も恐ろしい存在ではないわ。そんなに緊張しなくていいのよ。掛けてちょうだい」
促されるまま、遠慮がちに椅子に腰を下ろす。
極寒と錯覚するほど冷え切った空間には、あらゆる音を吸い込むような完全な静寂が満ちていた。柔らかな声色とは裏腹に、こちらへ向けられる気配には一切の感情の揺らぎがない。肌を刺すような冷気と、魂の底まで見透かされるような圧倒的な重圧。魔界の絶対的統治者が無言のうちに放つその威圧感に、思わず息が詰まった。
「このような形で侵入してしまい、申し訳ありませんでした」
ホワイトブリムを取り外し、窮屈に纏めていた豊かな栗色のウェーブヘアをほどきながら名乗る。
「私は、魔術師のメデアと申します」
「あら、魔界では皆そんなに私を怖がっているのかしら? 直接話に来ればいいのに……。メイドの姿で潜入するなんて、困ったものね」
咎めるような響きはなく、ただ深い寂寥感だけが滲んでいた。
「お嬢様、重ねてお詫び申し上げます。私は魔界の者ではなく――」
「もういいわ。『お嬢様』なんて呼ばないでちょうだい。神だからといって、特別扱いされるのは少し疲れるの。……それで、メデアだったかしら? 私に何の用?」
「ある特別な理由で魔界へ参りました。強大な力を持つアーティファクト、アメジストを探しているのです」
神綺は小さくため息をつき、肘掛けに腕を預けた。どこか遠くを見るような、酷く寂しげな瞳で見つめ返してくる。
「つまり、あなたはただの冒険者……トレジャーハンターというわけね。なんて退屈な……」
「少し違います。キクリという名前……ご存知でしょうか」
ぴくりと、神綺の眉が動いた。怒りではない。過去の記憶をまさぐるような、静かな思索の表情だ。
(……またしても、この名前が厄介事を招くのだろうか)
内心の危惧を押し殺し、言葉を継ぐ。
「あなた様と同じように、菊界を造った創造主……キクリ様のことです」
「懐かしい名前ね。キクリは私の妹……そう、創造主にも姉妹がいるのよ。人間に分かりやすく言えば、かつて人間は私たちと同じような存在だった。それが堕落し、迷い、混乱して力を失っただけ。もちろん、私たちにも寿命はあるけれど、人間とは時間の流れ方が違うの。……妹とは、創造主の住処を離れて以来会っていないわ。あなたがどうしてキクリの名を知り、私の前に現れたのか……興味深い話ね。続けてちょうだい、メデア」
「率直に申し上げます。良い報せではありません。正確な期間は不明ですが、キクリ様は長きにわたり、青銅の浮き彫りに封印されているのです」
「封印……? なるほど、論理エラーに陥っているということね。封印した者は、私たちの性質をよく理解しているはず。もしかしたら……他の創造主の仕業かしら。それで、ただそれを報告しに来たわけではないのでしょう?」
「ええ。キクリ様は私の幻視に現れ、封印を解く鍵……魔界に隠されたアメジストについて教えてくださいました。ここへ辿り着いた時、その在り処が分かったのです。……ユウゲン・マガンと呼ばれる怪物を、ご存知ですか?」
「いいえ、初耳だわ」
「では、ユゲミアという名は?」
「それも知らないわね。怪物なの?」
「ええ、五つの目を持つ怪物です。倒した敵の魂を喰らうという噂も……。一度だけ遭遇しましたが、ひどく不快な体験でした。キクリ様を救う鍵は、あの怪物の中にあります」
神綺は考え込むように自身の髪先を指で弄び、静かに口を開いた。
「つまり……私に、あの怪物を倒すのを手伝ってほしいということ?」
「はい。それが唯一の方法のようです。ですが……どうやら他の何者かも、そのアメジストを探しているようでして。昨日、幻月と名乗る悪魔の罠にかかり、殺されかけました」
「そう……どこへ行っても陰謀と争いが絶えないのね。……疲れたわ」
吐き出されたため息には、途方もない年月の重みがこもっていた。
「あなたを拒絶するつもりはないけれど、少し忙しいの。妹を救いたい気持ちはもちろんあるわ。でも今は……娘の方が大切なのよ。あの子の名誉のために、復讐を果たしてからね」
「名誉のため……? いったい、どういうことでしょうか」
「そんなに気になる? 幻想郷で……アリスは卑劣な人間たちに……穢されたのよ。許しがたいことだわ。それだけで十分な理由でしょう? 他に付け加えることはあるかしら」
その瞬間、背後の扉が音もなく開いた。
入ってきたのはアリスだった。視線が絡み合う。少女の表情には、底知れぬ無邪気さと、微かな好奇心しか張り付いていない。青いリボンの位置を直し、軽やかな足取りで神綺の傍へと擦り寄っていく。
「ママ、プレゼントの準備ができたわ! ……あれ? このお姉さん、誰? メイドさん? アリス、二人だけで渡したかったのになぁ……」