第68章 歪みゆく現実(サイドストーリー)

雨に濡れたアスファルトを、街灯の鈍い光が滑っていく。深夜の静寂を切り裂いて走り去る車のテールランプを、窓辺に突っ立ったまま、ただぼんやりと目で追っていた。

引きこもる気も、現実から逃避する気もなかった。ただ、ひたすらに心が鉛のように重く、どこへ出かける気力も、誰かと口を利く気にもなれないだけだ。いや、正確に言えば、胸の奥底でざわざわと不快なノイズが鳴り止まないのだ。指先に挟んだタバコの煙を、肺の奥深くへと吸い込む。

(一体、どこで歯車が狂っちまったんだ……)

数日間。ほんの数日間だけ、俺は「英雄」だった。

甘美な響きだ。得体の知れない力に導かれ、未知の世界で血湧き肉躍る冒険に身を投じた。あの時間は確かに、俺の空っぽな人生を熱い情熱で満たしてくれたはずだった。

だが、今となっては全てがひどく嘘くさい。夢のように脆く、儚い。

そもそも、英雄なんて最初からいなかったんじゃないか?俺はまだ夢を見ているのか? それとも……あの小さな世界を救い、魔女たちを追い出し、静葉に出会ったのは現実だったのか。

静葉だけじゃない。あんなにもたくさんの女の子たちに囲まれるなんて、どう考えてもまともじゃない。もし俺が、女と口を利くのもおぼつかないような非モテの野郎なら、「異世界ハーレム」の妄想に逃げ込んだと納得もできただろう。

だが、俺は「普通」だった。いや、「普通だった」はずだ。今となっては、自分の正気すら疑わしい。

静葉と手を繋ぎ、あの『ポータル』をくぐり抜けた時の感触は、今も両手に生々しく残っている。あの温かくて、ひどく柔らかい感触。

なのに、その後の記憶はすっぽりと抜け落ちている。気づけば、見慣れたアスファルトのど真ん中に突っ立っていた。ポケットには、無一文ではないが、大金でもない中途半端な小銭だけ。

(俺は、狂っちまったのか……?)

夜の窓ガラスに、ひどく窶れた男の顔が浮かんでいる。無性に強い酒を喉に流し込みたかったが、空っぽの財布が現実を突きつけてくる。

(あぁ、クソみたいな人生だ。なんでこんなにクソなんだよ)

親父に愛想を尽かされ、圧力鍋で密造酒を造るほど酒に溺れた母さんが、肝硬変で死んだ。次に、バイト先をクビになった。そして……俺自身の頭がイカれちまった。

(全部……俺のせいなのか?)

「タクミは悪くないのよ」

甘ったるい、鼓膜にへばりつくような幻聴。

部屋の鍵は閉まっている。誰も入ってこられるはずがない。……なのに、その声の主は、間違いなく。

(やっぱり……俺の頭、完全にイカれちまったんだ……)

窓ガラスに映る自分の背後に、はっきりと「それ」が立っている。

「……母、さん……?」

「ええ……私よ、タクミ」

ひどい悪寒に全身の筋肉が硬直する。

「なんで……」

「わからないけど……ああ、タクミ。私のかわいい宝物。抱きしめてちょうだい……」

恐る恐る振り返る。幻覚であってくれという願いは、残酷なまでに打ち砕かれた。

数ヶ月前に死んだはずの母親が、そこに立っていた。

「……本物、なのか……? いや、昨日飲んだ最後のビールのせいで、幻覚を……」

震える腕を伸ばし、その肩に触れようとする。だが、指先は中空を掻き、半透明に霞んだ輪郭をあっさりとすり抜けた。

「どうして……ここに……」

「私にもよくわからないの」

母親は、どこか夢見るような哀れっぽい声で呟いた。

「私が死んだのは事実よ。あの後ね、ずっと灰色で、退屈で、静かな場所にいたの。風が吹き荒れるだけの、何もない地獄……。ああ、強いお酒が飲みたくてたまらなかったわ」

ひどく歪んだ溺愛の眼差しで、こちらをじっと見つめてくる。

「でも、気がついたらここにいたの。ねえタクミ、私がいなくても大丈夫だった? 寂しかったでしょう?」

(意味がわからねえ……。俺の頭がおかしいのか、それとも……あの世界の続きで、何かが起きているのか?)

「お父さん! なんであなたまでここにいるのよ!?」

母親の金切り声に、びくっと肩が跳ねる。

振り返った先には、十年前に死んだはずの祖父が、ニコニコと朗らかな笑みを浮かべて立っていた。

「いやあ、ちょっと散歩にな! タクミも一緒にどうだ?」

生前よりもずっと若々しい姿の祖父が、窓の外を指差す。

促されるまま、恐る恐る窓を開け放ち、眼下の街を見下ろした。

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一見すると、見慣れた団地の風景だ。

だが、日常の皮膜はすでに破れかかっていた。

バチバチと耳障りな音を立てて倒れた電柱から、青白い火花がストロボのように弾け飛んでいる。ひしゃげた事故車両が道を塞ぎ、ヘッドライトが虚しく虚空を照らしていた。

土砂降りの雨の中を、生きている人間たちが悲鳴を上げて逃げ惑っている。

彼らが恐れているのは、事故そのものではない。

アスファルトの上に。車道に。公園の芝生に。

「白く発光する、顔のない半透明のシルエット」

が無数に立ち尽くしていた。

轟音や悲鳴には一切の反応を示さず、ただ緩慢に徘徊し、あるいは直立している。

それは、ゾンビのような物理的な脅威ではない。

日常の風景に重なる、決して存在してはならない死者の世界の住人たち。

物理的な轟音と完全に乖離した、圧倒的な「死の静寂」だ。

オゾンの焦げた匂いと、生臭い雨の匂いが混ざり合い、胃の腑を直接抉るような吐き気を催させる。

チカチカと明滅する街灯の下、光る亡霊たちの数はネズミ算式に増え続けていた。

生者の街が、音を立てて死者の国へと沈んでいく。狂っていく現実を前に、俺はただ、雨風に打たれながら立ち尽くすことしかできなかった。