第77章 桃の仏さん

天使といえば慈悲深く、復讐とは無縁の存在。堕天使ならまだしも、そうでない天使がいきなり攻撃を仕掛けてくるなど、全くの想定外だった。

有頂天市の外壁上空、氷のように冷たく薄い空気の中で、容赦のない白い弾幕が降り注ぐ。宙に舞い上がったカナは、すぐには反撃に出ず、こちらの判断を待つように視線を向けてきた。

ポケットからエレンに貰ったラブ♡ビーム機を取り出す。教わった通りに六角形のプリズムを構え、勢いよく振った。虹色の光線が怒り狂う天使に命中すると、相手はふわりと雲の層に降り立ったが、その険しい殺気は微塵も揺るがない。

「貴様ら! 何をする気だ! 罪深き人間どもめ、ここがどこだと心得る!」

鋭い声が、冷気を切り裂いて鼓膜を打つ。

(今がチャンスね)

喉のチャクラに魔力を集中させ、声を張り上げた。

「戦いたくありません……! 道に迷ってしまって……助けてください……!」

だが、効果は薄い。ビーム一発では足りなかったようだ。もう一度構えようとした瞬間、肩を強く突き飛ばされ、柔らかな雲の海へと倒れ込んだ。背後を掠めた緑色の熱線から、カナが間一髪で庇ってくれたのだ。視界の先、天使の少女の背後にはさらに三人の天使が立ち塞がっていた。

魔天使まてんし! 手間取るな! この罪深い人間どもに、誰が上位の存在か教えてやれ!」

四つの影が一斉に襲いかかってくる。カナは既に水色の魔力を掌に収束させ、迎撃態勢に入っていた。箒なしでは飛べない以上、覚悟を決めるしかない。杖から赤い弾幕を放つが、三次元の機動を誇る相手を捉えるのは至難の業だった。様々な色の魔力が服を焦がし、隣で展開されているカナの防御フィールドも徐々にその輝きを失っていく。

フィールドが砕け散った直後、魔天使が巨大な光球を掲げ、こちらへ肉薄してきた。回避は間に合わない。絶望的な圧力が迫る中、突如として背後から得体の知れない質量が飛び出し、よろめく身体を突き飛ばした。

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鼓膜を破るような獣の咆哮が、希薄な成層圏の静寂を物理的に引き裂いた。視界の端から飛び出してきたのは、身の丈をゆうに超える巨大なピューマだった。黄金色の逆光を背負い、剥き出しの牙と殺意を伴って天使へと襲いかかる。吹き荒れる風圧と共に舞い散る純白の羽毛が、スローモーションのようにきらめいた。絶対的な強者として君臨していた天使の顔は、予期せぬ猛獣の出現によって、見苦しい驚愕と恐怖に引きつっている。間一髪で鋭い鉤爪をかわしたものの、戦意を完全に喪失した四人の天使たちは、有頂天市の門の奥へと逃げ去っていった。

呆然と立ち尽くす中、聞き慣れた男の声が足元から響く。

「やあ、お二人のピクニックを邪魔しちゃって悪かったかニャ……」

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圧倒的な殺気と巨大な獣の姿はとうに消え失せ、冷え切った青白い影の中に、見覚えのある丸々とした猫が鎮座していた。恩着せがましく前足を浮かせるその仕草と、こちらを値踏みするような半眼の冷徹な眼差しは、彼が単なる愛玩動物ではなく、この天界という異常な環境に適応した存在であることを無言で主張している。

「ソクラテス? どうしてここに……?」

言葉を紡ぐより早く、猫は呆れたように息を吐いた。

「二人でまた一騒動企んでいるのかニャ? ずいぶんと回りくどいことをするもんだニャ」

カナが不機嫌そうに眉をひそめ、開けっ放しになっていたリュックサックを指差す。

「あんた、ずっとそこに隠れていたわけ?」

舌なめずりをしながら、ソクラテスは悠然と答えた。

「そうだけど、何か? 食い物と水はたっぷりあったし……今はもう無いけど。それに温かくて快適だったしニャ」

「でも、なぜ私たちの後をつけたの?」

優雅な足取りですり寄ってくると、冷たい鼻先を手に押し当ててくる。

「二人の計画は面白そうだけど、君たちはちょっと小馬鹿だニャ。俺が見ててあげないと」

(図々しい猫だわ。助けてもらったとはいえ、この態度は何かしら)

カナが冷ややかな声音で切り捨てる。

「ソクラテス、助けてくれてありがとう。でも、私たちは大丈夫だから帰ってちょうだい。エレンは知っているの?」

「まあニャ、デートだって言っておいたニャ。俺に彼女ができたって、エレンは大喜びだったニャ。……だから本当のことはまだ知らない。でもカナ、俺を追い出そうとしたら……チクっちゃうニャ。エレンだけじゃなくてね……」

「脅迫のつもりかしら?」

「うーん……脅迫というより、サポートの自発的な申し出かニャ。申し出自体は自発的だけど、強制的に受け入れてもらうけどニャ」

森で計画を練っていた時、誰に聞かれていたのかがこれでハッキリした。完璧なはずの密談は、この抜け目のない猫に筒抜けだったのだ。

「どうだ、まいったかニャ」

とでも言いたげな顔だが、肝心の通行証は手に入っていない。残る希望は、遠くに見える庭師の僧侶たちだけだ。

雲海の上の桃畑までは、あっという間だった。ソクラテスの指示通りにリュックサックを自転車の荷台に括り付けたが、当の本人はふんぞり返って寝そべっている。隣を飛ぶカナは、苛立ちを隠そうともしていなかった。木々に近づく前に自転車を卵に戻し、カナと小声で作戦を練る。

「さて、どうする? ここの修行者たちは、亡霊か仏のどちらかよね」

「そうね。あそこにいる二人組の女の子、見える? まだ若いし、いいカモになりそうだわ」

カナの冷酷な呟きを、ソクラテスがジロリと睨みつける。

「いいカモって、どうするつもり? 『天界で迷子になったので通行証を貸してください。明日返します』なんて、馬鹿正直に言うわけ?」

「じゃあ、話しかけてスるとか? それとも……人気のない場所に連れ込んで……」

カナが物騒な提案を口にすると、ソクラテスは「シューッ」と威嚇音を鳴らして歯ぎしりした。

「そんな乱暴な真似したら目立つだろうニャ。もっとスマートな方法があるニャ」

「へえ、本当? だったら教えてちょうだいよ、猫さん」

鼻で笑うカナに、ソクラテスはふいっと顔を背ける。

「いやだニャ。君たちに教える義理は無い。俺について来れば、一時間もしないで都に入れてやるニャ。見てのお楽しみだニャ」

突如、ソクラテスの左耳がレーダーのように回転し、釣られるように頭もぐるりと後ろを向いた。数秒後、甘い香りの漂う桃の木々の間から、雲を掻き分けるような足音が近づいてくる。

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研ぎ澄まされた冷気と張り詰めた緊張感は、どこからか漂ってくる甘く熟した果実の匂いと、夕暮れ時のような柔らかい温もりにすっかり塗り替えられていた。立ち込める乳白色の雲海を抜けて現れたのは、色鮮やかな衣装を纏った可憐な少女だった。慈愛に満ちた穏やかな微笑みをこちらに向けながら歩み寄ってくる。彼女が両手で差し出してきた木桶には、ずっしりとした生命の重みを感じさせる果実が山盛りに積まれていた。

「あの、こんにちは。初めてお見かけしますけれど……もしかして、お二人は仏様でしょうか?」

澄んだ声が、警戒を解くように響いた。軽く会釈を返し、無難な笑みを浮かべる。

「はじめまして。いえ……仏様には程遠い身ですよ。それにしても、見事な香りですね」

「ありがとうございます! 天界には旅人がめったに来ないので、お会いできて嬉しいんです」

少女は屈託なく微笑み、重そうな籠をこちらへ差し出してきた。

「どうぞ! 私、比那名居ひなない家の末っ子で、あまと申します。今はまだ仏なんですけれど、もうすぐ菩薩になるための試験を受ける予定なんです。お姉様方は?」

(比那名居……どこかで聞いた響きだわ。確か、天子てんしという名の……?)