真夜中を過ぎているはずだ。眠気はない。代わりに、張り詰めた緊張が胃の腑をギリギリと締め付けていた。空き腹にこのプレッシャーはこたえる。長い夜になりそうだった。
眼前の銀色の仮面。常軌を逸した思考回路は理解の範疇を超えているが、厳しい死闘になることだけは確実だ。
軽く頭を下げて戦闘態勢に入るその一瞬で、思考をフル回転させる。手札は夢美から預かったブラスターと、弾幕。活路を見出すなら、相手の主要チャクラを見抜いて防御フィールドを貫くしかない。
(神に取って代わろうとする傲慢さ……主要チャクラは、頭頂の白、サハスラーラね)
杖をムラダーラの赤に切り替え、意識を集中する。
一礼した次の瞬間、視界が弾けた。
鼓膜を打つ風切り音。目にも留まらぬ速度で無数の岩片が殺到してくる。どこから取り出したのか、あるいは生成したのか。身を隠したアーモンドの太い幹が、凄まじい衝撃音と共に真っぷたつにへし折られた。
木片が散る中、反撃に転じる。右手にブラスター、左手に杖。第七チャクラから展開した白い防御フィールドは、文字通り魔力を食い潰していく。攻撃特化のこの杖では防壁の強度は知れている。それでも、直感だけが「これしかない」と告げていた。
(私の直感が、外れるはずないわ)
斜面の木々を縫うように飛び回りながら、ブラスターの引き金を引く。だが、当たらない。光の速度で到達するはずの熱線を、天子は紙一重で躱し、正確な軌道で礫を撃ち返してくる。
(戦闘経験が、私とは桁違い……!)
息を呑む暇も与えられず、間合いがゼロになった。
岩石が砕け散り、鋭い破片が肩を削る。続けざまの連撃が弱体化した防壁を叩き、視界が明滅した。魔力はもう底を突きかけている。
だが、猛攻の果てに、天子の動きがほんの一瞬だけ止まった。
ここだ。杖から赤い弾幕を至近距離で叩き込む。チャクラの読みが正しければ、これで終わる。
甲高い反発音。
弾幕は、天子を覆う黄金色のフィールドに触れた瞬間、無惨に弾き飛ばされた。
(読み違えた……! サハスラーラじゃない!)
絶望を悟るより早く、黄色のレーザーの輪が展開される。白い防壁は飴細工のように砕け散り、灼熱が胸部を容赦なく焼いた。キクリから与えられた衣服が辛うじて致命傷を防いだものの、凄まじい衝撃に身体が吹き飛ばされる。
体勢を崩したまま、牽制のブラスターを乱射した。一発が掠り、天子の激情に火をつける。
見上げれば、頭上の天子が巨大な岩盤を振り下ろしてくるところだった。
背中を掠める質量の暴力。急斜面で完全に足場を失う。
もがきながら視線を戻すと、すでに目前に黄色の光量が膨れ上がっていた。黄金色のフィールドを展開しようとするが、無駄なチャクラの維持に魔力を吸い尽くされ、何も起きない。
腹部と胸を貫く二度目の激痛。
そのまま、デコボコの荒地に叩きつけられた。もはや軌道修正する集中力すら残されていない。
「ハハハハ! ついに良心も捨て去ったわ! さあ、私の好きにやらせてもらう!」
勝利の狂笑が、夜風に乗って遠ざかっていく。
身を丸めることすらできず、急峻な岩肌を転がり落ちていく。視界が激しく回転し、上下の感覚が完全に消失した。
(最初から……戦術を、間違えて……)
凄まじい暴風が耳元で真空の轟音を立てて唸る。
猛スピードで迫り来るのは、生命を拒絶するような極寒の深淵。青白い霧が渦巻き、鋭利な刃のような黒い奇岩群が、落ちてくる獲物を串刺しにせんと待ち構えている。
内臓がせり上がるような強烈な浮遊感と、全身を包み込む氷点下の冷気。月光すら届かない暗黒の底へ、ただ真っ逆さまに吸い込まれていく。
そして、何か大きな物体が背中を打った直後、太い木の幹が頭頂部を容赦なく打ち据えた。
意識は、唐突に黒く塗りつぶされた。
***
絶対的な虚無。
(私、死んだのかしら。……でも、前とは感覚が違うわ)
自分の肉体の輪郭すら掴めない漆黒の中で、不意に光が滲んだ。
それは幻燈のように景色を映し出す。両親が消える前の、懐かしい我が家。それが過ぎ去ると、今度はギリシャではなく、幻想郷の景色が広がった。燃えるような紅葉が山々を彩り、瞬きする間に、冷たい雪の結晶が闇の中から舞い落ちてくる。
見上げれば、空は深く黒く、星々が不気味なほど鮮烈に瞬いていた。
その凍てつくような星明かりと月光の先に、ひとつの影が静かに浮かび上がってくる。
[SYSTEM ALERT: 音響兵器デプロイ完了]
▼ 本章の絶望を1000%味わうための専用聴覚データ ▼
■ YouTube:『Shangri-La Catastrophe (シャングリラ・カタストロフィ)』