第90章 二つの道

冷却ファンが鼓膜を打つ轟音と、冷え切ったシアンの光に満たされた無機質なサーバー室。吐き出される熱風を肌に受けながら、頭の中では二つの選択肢が激しくせめぎ合っていた。

世界を揺るがす選択――ソクラテスか、カナか。システムを改修するか、削除するか。

ソクラテスの主張には冷徹な論理があった。システムを根こそぎ削除すれば、たちまち閻魔の知るところとなり、死よりも残酷な運命が待ち受けている可能性が高い。それに、カナの語る「世界の改造」が具体的に何を意味するのか、皆目見当もつかなかった。

(閻魔は魂の記憶を消去して転生させているだけで、管理そのものは機能しているのかもしれない……)

未知への恐怖を飲み込み、ソクラテスの案に賭けることに決めた。

「カナ、頼みがあるのだけれど。今、来客を追い払えるのはあなただけよ。この作戦を成功させるには、怪しまれるわけにはいかないわ」

カナは静かに頷いた。しかし、向けられたその瞳の奥には焦点の合わない虚無があり、得体の知れない不安と恐怖が渦巻いているようだった。

彼女は音もなくドアへ近づき、通路で見かけた死神と同じ黒髪の男の姿へと変身した。隙間から外の様子を窺い、わずかに開けた扉から素早く身を翻して出て行く。

肩の上のソクラテスが、満足げに喉をゴロゴロと鳴らした。

「よし。閻魔どもを終わらせる時間だニャ」

閻魔たちもまたデータベースに登録され、詳細な個人情報が記録されている。「閻魔」という概念自体が、テーブルに設定されたフィールド値の一つに過ぎない。閻魔という独立した種族が存在するわけではないのだ。「閻魔」と「一般人」の他に、「追放者」と「抹消者」というステータスが存在するという。

ソクラテスが低い声で解説を始めた。

「『追放者』は人間に生まれた瞬間、確実に死ぬ運命にある。だから俺は何度も動物に転生させられてきたんだニャ。『抹消者』は最終判決、最も重い刑罰だニャ。主に政治犯に適用されるもので、生まれた瞬間に記憶を消されて即死する。つまり、この世に存在できなくなるニャ。閻魔どもは滅多にこの刑罰を使わないが、『追放者』なら腐るほどいるニャ。……さあ、死を司るパン屋どもに、自分たちが焼いた死のパイをたっぷり食わせてやるニャ。全員のステータスを『抹消者』に変えるんだニャ」

指示通りにキーボードを叩き、操作を終える。

「これは時限爆弾だニャ。閻魔どもがデータベースにアクセスして仕掛けに気づく前に抹殺されれば、処理衛星に吸い込まれる。……俺たちの勝利だニャ。他に何かやっておきたいことはあるかニャ?」

(月の姉妹には散々煮え湯を飲まされてきたけれど、敵と同じ土俵に立つ気はないわ)

そう内心で冷たく吐き捨て、彼女たちのステータスは抹消ではなく「追放者」へと変更しておいた。

最後に、データベースのログから変更の痕跡を完全に消去し、作業から手を放す。

「ところで、ソクラテス。大人の肉体に移り住むことはできるの?」

「当然だニャ。どの病院にも昏睡状態の患者はいるニャ。『持ち主』がいなくなった肉体は、いずれ死ぬ運命にあるが……しばらくの間なら乗っ取ることができるニャ。ただし、『閻魔の発信機』はへその緒を切られた時だけじゃなく、こういう場合にも作動するのを忘れてはいけないニャ。誤魔化すのは無駄だニャ。……我々……いや、やつらはすべてお見通しだニャ」

休む間もなく質問を重ねる。

「ちょっと待って。私たちが勝ったらどうなるの? 具体的に教えてちょうだい」

「俺と君は……新評議会の最高裁判官になる。システムから不公平を完全に排除するんだニャ。地獄は計画通り、月の姉妹の夢幻世界になる。地球は以前の姿とステータスに戻るニャ」

その時、重厚な金属のドアが勢いよく開かれた。心臓が跳ね上がり、背筋を悪寒が駆け抜ける。

飛び込んできたのは、男の姿に擬態したカナだった。その後ろには、この殺風景で冷ややかな空間には到底不似合いな、幼くか細い少女――窓付きが続いている。

過剰な空調が吐き出す乾燥した冷気と、サーバーファンの低く重い轟音が支配する中、場違いな彼女の存在が奇妙な不協和音を生み出し、息の詰まるような気まずい沈黙が降りた。

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(まさか、通路で聞こえたあのベルの音は、彼女の乗る自転車だったのか……)

「来客はこの子だけ。せっかく変身したのに、無駄骨だったわ」

男の姿のカナが忌々しげに舌打ちをする。

窓付きはゆっくりと顔を上げ、掠れるような声で口を開いた。

「私……迷子に、なっちゃったの……。ここに、判子を、押してもらわないと……」

歩み寄り、差し出された書類に目を落とす。それは、裁判の前に何時間もかけて記入させられた、あの無味乾燥な滞在者アンケートと同じものだった。そっと彼女の頭に手を置く。

「窓付き、そこまでしなくても……」

「分かってるの……。責めないで……」

途切れ途切れの短い言葉が返ってくる。

「ごめんね、窓付き。どうしてそうしたかは分かってるわ。違う世界に行けば、すべてうまくいくと思っていたのよね……。でも、もう遅いの」

「テオドラさん……。昨日、私が道案内したでしょう……? あのね、今度は……テオドラさんに、教えてもらってもいい……の……?」

その痛切なやり取りを断ち切るように、カナが鋭い声を上げた。

「ちょっと待った。データベース、消したの?」

「消していないわ。危険すぎるから。その代わり、閻魔には引導を渡しておいた。あとは自滅するのを待つだけよ」

男の姿のまま、カナは無機質なサーバーラックの間を落ち着きなく歩き回り、露骨な嫌悪を顔に張り付けた。荒い息を吐き出し、こちらをねめつける。

「そう……。わかったわ。危険だという、その薄汚い猫の言い分は正しいのかもしれない。けれど、気づいていないの? あいつの狙いが何なのか。これはただのクーデターよ。システムはそのままで、トップがすげ替わるだけ。安全な高みから見下ろしていれば、足元の虫けらがどうなろうと知ったことではないのでしょうね。

メデア、あなたはどちらの味方なの? その落ちぶれた開発者の口車に乗せられているわけ?

ああ、もう。どうしてこんな当たり前のことを説明しなければならないの。二足す二は四だと言っているだけなのに、なぜ誰も理解しようとしないのかしら。……いいわ、もう一度だけ説明してあげる。

この世界のシステムが不公平だということ、まさか冗談だとでも思っているの? 考えてもみて。もし人間が前世の記憶を保持したまま転生できたら、争いなんてなくなるわ。悪事を働けば必ず報いを受けると分かっていれば、誰もそんなリスクは冒さない。それに、世界はようやくまともに進歩し始める。『後は野となれ山となれ』なんて無責任な態度はとれなくなるのよ。自分が食い散らかした世界で、再び自分が生きなければならないのだから。

そんな世界を、見てみたいとは思わない?

それとも、この狂ったポルターガイストの戯言だとでも思っているのかしら。私に失望した? 所詮は人間ではない化け物だとでも? 私はね、偉大なる宇宙の意思を体現しているのよ。

あなた、思考がただの凡人に成り下がっていない? 『死は避けられないものだ』なんて、変化を恐れて今の腐った秩序にしがみついているだけ。すべての責任を負うのが怖いのでしょう? だったら、そもそもこんな計画に乗るべきではなかったのよ。

それとも、もう凡人ではなく羊飼い気取りかしら? その猫は、あなたと一緒にシステムの頂点に立つとでも持ちかけたのでしょうね。それで、自分が公正な裁判官を演じられるとでも? 定命の者から自由意志を奪っておきながら、何が正義よ。生まれた瞬間から結末が決まっていて、偽善に塗れた羊飼いに運命を弄ばれるなんて、私は絶対に御免だわ。

……わかったわ。今はデータベースを完全に破壊するのは賢明ではない。信じるわ、それで納得してあげる。天界に戻って、やりかけの仕事を続けましょう。決着はその後でつければいい。

でも、最初に言ったことは覚えているわよね? 私たちの約束よ。第三者は邪魔なの。その猫には消えてもらうわ。できれば穏便にね。

そうでないなら、私はここから手を引く。

何度も言わせないで。メデア、あなたは私の味方なの?

選びなさい。私か、あいつか」