第19章 灰に覆われた地層

Image 19-1

乾ききった赤土を踏みしめるたび、細かい砂埃が舞い上がり、喉の奥に鉄錆のような不快な味がこびりつく。華やかな洋館での色彩はとうに失われ、視界を埋め尽くすのは延々と続くセピア色の荒野と、深く切り立った断崖絶壁だけだった。太陽の存在しない重苦しい曇天の下、異物としての生気を放っているのは、自らの体温と、脇に抱え込んだ分厚い革装丁の魔導書の重みくらいのものだ。

(ああ……そうだった。ここは地獄だったわ)

長年研究対象としてきた存在の故郷。肌を刺すような灰色の風が吹き荒れる中、曲がりくねった細い道を見据えた時、背後から震える声が響いた。

「お嬢ちゃん、ここに座って私の話を聞いてくれない? 何もしないから、怖がらなくていいのよ」
幽霊は岩の破片を指差した。

「あの曲がりくねった道に行こうと思ってたんですけど、一緒に来てくれませんか?」

「ごめんなさいね、お嬢さん。でも、私はここを離れられないの。少しだけ、話を聞いてもらえないかしら?」
懇願するような哀れっぽい声に、メデアはうんざりしながらも、有益な情報を引き出すための対価と割り切って岩の上に腰を下ろした。

だが、幽霊の口から垂れ流されたのは、吐き気がするほど自己中心的で、見え透いた自己弁護のパッチワークだった。
食堂で見初めたというハンサムな将校の夫への依存。圧力鍋で密造酒を造り上げた頭の良い息子への、ひどく歪んだ溺愛。
「息子はお母さんっ子だったの」「私の宝物よ」と甘ったるい声で語りながらも、結局彼女は、タダ同然で手に入る強い酒の誘惑に抗えず、夫に見捨てられたのだという。
挙げ句の果てに、自らの招いた肝硬変を「簡単に手に入れた命は儚いものよ」などと悲劇のヒロイン気取りで正当化する始末だ。

「静かで、痛みもなくて楽だけど……息子のことが心配だわ。私がいなくても、大丈夫かしら……?」

(……本当に、つまらなくてしょうがないわね)
終わりの見えない自己正当化の羅列に、メデアは内心で冷たく吐き捨てた。最後に何か軍の拠点の情報でもこぼすかと期待して我慢していたが、どうやらただの時間の無駄だったようだ。

「悲しいお話ですね。お気の毒に」
一切の感情を排した声で相槌を打ち、強引に本題へ引き戻す。
「ところで、どうやってここに来られたんですか? ここは地獄ですよね?」

「ははは、お嬢ちゃんは本当に正直な子ね! 確かにここは地獄よ。でも、どうやって来たのか全然思い出せないの。あの日、またお酒をたくさん飲んで……目が覚めたら、この岩を見てたのよ」

「そうですか。では、ここで悪魔や、軍隊らしきものを見かけませんでしたか?」

「悪魔? 悪魔なんていないわよ。誰もいないの。私みたいな幽霊も滅多にいないのに、悪魔なんているわけないじゃない? 神父さんがマグマの川や悪魔の話をしていたけど、全部嘘だったみたいね」

「じゃあ、ここでまだ誰にも会ってないんですか?」

「いいえ、一人の女の子には会ったわ。小さくて優しい子だったの。目が見えなかったかしら……いや、見えてたわね。よく覚えてないわ……。名前は……マドちゃんだったかしら。私の身の上話を聞いて、どこかへギコギコと行ってしまったの」

「ギコギコって……どういうことですか?」

「そうよ、ギコギコ。自転車に乗ってたのよ」

(地獄で自転車に乗った少女……それは少し興味深い話ね)
「その子がどこへ向かったか、覚えていらっしゃいますか?」

「うーん、あそこかしら……? いや、覚えてないわ……」

岩から立ち上がると同時に、胃の腑から強烈な吐き気がせり上がってきた。眼球の副作用か、この澱んだ空気のせいか、それともこの無益な幽霊のせいか。
(結局、無駄骨だったみたいね。吐き気が増しただけだわ。時間を無駄にしたわ、先に進まなきゃ)

「お話を聞かせていただきありがとうございました。そろそろ行かなくちゃ……」
メデアは背を向け、再び崖に向かって歩き出した。

「こちらこそ、聞いてくれてありがとう! 行ってらっしゃい、お嬢ちゃん!」

遠ざかるにつれて、幽霊の気配は薄れ、やがて完全に霧散した。

***

険しい岩場を登り始めると、不快感はさらに増していく。まさに「地獄」という名に相応しい荒涼とした空間だ。せめて気休めにでもなればと、魔導書を開いて古代ギリシャ語の陽気さの呪文を唱えてみる。
……何も起こらない。別の呪文を試しても同じだ。体内の魔力の流れを探ろうとしても、まるで感覚が麻痺したように何の応答もない。

(まさか……魔力まで失ってしまったの?)
背筋に冷たい汗が伝う。短剣どころか、身を守るための棒切れ一つ落ちていない。

足元に目を落とすと、ひび割れた大地を構成する地層の中に、奇妙な色の層があることに気がついた。周囲の赤土とは明らかに異なるその部分を慎重に掘り起こすと、錆びついた長方形の重い金属塊が現れた。表面には、未知の象形文字のようなものがびっしりと刻まれている。

(もしかして、ここは私が知っているような、単なるキリスト教的な地獄とは違うのかもしれないわね)

金属板をローブの内ポケットに隠し、さらに急斜面を登り切る。視界が開けた先には、風化し崩れ落ちた古代遺跡のような石造りの残骸が広がっていた。壁の一部だけが辛うじて原形を留めているが、この角度からは詳細までは掴めない。

「未だ我らが力が及ばぬと申すか」

ふいに、重厚で威圧的な男の声が響いた。無意識に崩れた瓦礫の陰へと身を潜め、気配を殺して道を窺う。

「はっ。あの堕落の巣窟、我らが精鋭を以てしても容易く打ち負かされてしまったようで……。己の不甲斐なさ、申し開きもございません」

聞き覚えのある少女の声だ。館へ攻め込んできた軍の先陣を切っていた、あの明羅という剣士に間違いない。しかし、張り詰めたその声音は、どこか無理をして強がっているような、不自然な硬さを帯びていた。

Image 19-2

足音が近づいてくる。瓦礫の隙間から覗き見ると、明羅が一歩引いた位置から、隣を歩く大柄な男に付き従うように歩みを進めていた。
男の全身から放たれる気迫は、華やかな洋館の住人たちとは全く異質な、血と土の匂いが染み付いた歴戦の戦士のそれだ。周囲の淀んだ空気すらも従えるような、絶対的な支配者の威圧感。二人の間に存在する明確な主従関係が、痛いほどに伝わってくる。

「案ずるな、明羅。やがて完全なる静寂が、迷える魂を悉く救済する日が来よう」
男の言葉には、一片の迷いも疑いもない。

「それにしても、何故再びあの場所へ赴かれるので?」

「過去の記憶を呼び起こすゆえだ。我らが戦端を開いた、あの始まりの時をな……」

(どうやら、思ったよりも早く敵の核心に辿り着いてしまったみたいね)

岩陰で息を潜めたまま、必死に思考を巡らせる。
このままやり過ごして尾行を続けるか。それとも、何らかの形で接触を図るか。奇襲など論外だ。魔力も使えない今の状態で、歴戦の武人を二人同時に相手取るなど、自殺行為以外の何物でもない。

堂々と前に出て交渉を持ちかけるのが一番手っ取り早いが、相手がこちらの言葉に耳を貸す保証はどこにもない。
焦燥感と共に、またしても強烈な吐き気が込み上げてくる。眼球の副作用が限界を迎えつつあり、冷静な判断力すら奪われそうになっていた。

(他に方法はないの……? いや、今は考えるよりも……)

しかし、泥のように重くなった足は一歩も動かず、ただ冷たい瓦礫の感触を確かめながら、息を殺して身を縮めることしかできなかった。