二人の足音が急速に近づいてくる。物陰に隠れてスパイ行為を疑われるよりは、堂々と接触を図る方が生存確率は高い。メデアは砂埃にまみれた髪を払い、充血して涙ぐんだ目を伏せながら、道の中央へと歩み出た。妥協を許さない意志の強さを、迷子という弱々しい仮面の下に隠して。
「あの、すみません」
呼びかけた瞬間、空気を裂く鋭い音が響いた。明羅が電光石火の早業で刀を抜き、切先をこちらへ突きつけていた。だが、隣を歩く大柄な男が静かに前に出て、その凶刃を横へと払いのける。
「見知らぬ者よ、名を名乗るのだ」
男の重々しい声が、地を這うように響いた。
「ただの、迷子の魔法使いです。この世界に迷い込んでしまって、帰る道が分からなくて……」
軽く頭を下げ、怯えたように声を震わせる。
「控えよ! こちらは我が主、様でございますぞ!」
明羅は警戒を解かないまま、刀の柄をきつく握りしめて凄んだ。
「我は明羅! 貴様、何奴だ! この地獄の亡霊どもと区別がつくうちに、速やかに目的を述べるがいい!」
必死に主君の威厳に合わせようと声を張り上げるその姿は、どこかちぐはぐで不自然な硬さを帯びている。
(明羅にとって『義務』こそが全て……まるで訓練された軍人のようね)
内心で冷やかに分析しながら、メデアはローブの内ポケットにそっと手を入れた。
「魔法の実験に失敗して、こんな所へ飛ばされてしまったんです。もう何時間も彷徨って、クタクタで……。ところで、これ、何だか分かりますか?」
先ほど掘り出した、未知の文字が刻まれた錆びた金属板を差し出す。
コンガラの顔に浮かんでいた困惑の色が、一瞬にして衝撃へと変わった。刻まれた文字を目で追うその眼差しは、明らかに内容を理解している者のそれだった。
「……それを、どこで見つけたのだ?」
「あの辺の崖の下で掘り出したんです」
蛇行しながら下っていく崖の道を指差すと、コンガラはまるで何かに取り憑かれたように自らの頭を抱え込んだ。
「ただの崖ではない……!」
呻くように呟き、急ぎ足で崖の道を下り始める。こちらにも付いてくるよう、短い合図が送られた。
「我らと共に出立するのだ。静かなる神殿にて、そなたが何者か、その名を詳らかにしてもらおう」
明羅は刀を鞘に収め、コンガラにぴったりと寄り添うように歩き出した。
板を見つけた場所を通り過ぎる際、そのポイントを指し示す。コンガラの鋭い視線は金属板から離れず、独り言のように何かをブツブツと呟き続けていた。声をかけるのも躊躇われるほどのただならぬ気迫だ。
(この板……コンガラの様子からして、何か重要なものらしいわね。静かなる神殿……連中の目的を探る絶好のチャンスかもしれないわ)
明羅の厳しい視線が突き刺さる中、あえて無邪気さを装って問いかける。
「では、私を助けてくださるんですか?」
「まずは……そなたを詳しく調べねばならぬ」
コンガラは明羅をちらりと一瞥し、苦渋の色を滲ませて答えた。
「しばらくの間、我らが質素な住まいで客人として過ごすがよい」
先ほど無益な幽霊と出会った場所を通り過ぎ、澱んだ水面が広がる地帯へと差し掛かる。やがて、危うい均衡を保つ天然の岩の橋へと辿り着いた。
「ここから先は『静かなる領域』である」
橋の手前で立ち止まり、明羅が鋭い視線でこちらを射抜く。
「この橋の先は、我らが最後の道徳の砦である。不浄なる思念は一切許さぬ。法を違える者は、即刻罰せられるであろうぞ!」
「わかりました、気をつけます」
砂嵐が収まり、橋を渡り切ると、吹き抜ける風の質が僅かに変わった気がした。周囲の死に絶えた荒野とは完全に隔絶され、狂気的なまでの静寂が支配する空間。乾いた風に揺れる微かな葉擦れの音が、ここが単なる廃墟ではなく、何者かによって徹底的に管理された生命の砦であることを無言のうちに告げていた。
(『最後の砦』……一体、何の最後だというのかしら……?)
視線を落とし、奇妙な板の感触をローブ越しに確かめる。一族の図書館に眠っていた数多の蔵書があれば、あの文字の起源を突き止められたかもしれない。だが、今はもう確かめる術はない。
神殿の敷地内では、青白い幽霊たちが黙々と草に水をやり、窓を拭き、重そうなバケツを運んでいた。明羅はそれらの光景を詳しく見せる気はないらしく、足早に内部へと促される。
分厚い石壁に囲まれた空間は、外の荒野とは比べ物にならないほどひんやりと澄んでいた。むき出しの壁に並ぶ燭台と、ひび割れた大理石のベンチ。確かに「質素」という言葉が相応しい。
促されるままベンチの一つに腰を下ろすと、急激な疲労感が全身にのしかかってきた。コンガラと明羅がいつ戻ってくるのかという警戒心を抱きながらも、鉛のように重い瞼に抗いきれず、メデアの意識は深い微睡みへと沈んでいった。
***
(オレンジ。あんな子なのに、どうしてこんなに気になるのかしら。バカで落ち着きがなくて、世間知らずで、まるで子供みたいなのに。それでも、惹かれる気持ちと、軽蔑と、羨望が同時に湧き上がってくるのは、一体なぜ……)
夢の中で、屈託のない笑顔が弾けた。
「ありがとう、ありがとう! ねえ、聞こえてる? お散歩に行くよ! すっごく楽しいんだから!」
杖が振り回され、青い光が視界を満たす。恥ずかしそうに指先を噛むクルミと、言い訳がましく後ずさりする太郎の姿が揺らぐ。
オレンジの笑顔が次第に霞み、次の瞬間、むせ返るような香水の匂いと共に、豪奢な寝室の光景が広がった。
「ねえ、あの子は幸せだと思うかしら?」
燃え盛るような赤い瞳が、真っ直ぐにこちらを見透かしてくる。
「どうしてそんなことを言うんですか? 幸せじゃないとでも?」
メデアは問い返した。
「あの子を見てごらん。まるで、ないはずの自分の尻尾を追いかけてるみたい。あれが幸せに見える?」
幽香は挑発的な笑みを浮かべ、気怠げに視線を外した。
「幽香様、随分と難しいお話ですね」
皮肉を込めて返す。
「単純に考えちゃダメよ、お嬢さん。私がこの屋敷で一番、まともなの」
「まあ、しつこい男を縛り付けることが最高のまともさだというのなら、確かにそうかもしれませんね」
幽香はふっと鼻を鳴らした。
「あの子たちにできないことが、私にはできるのよ」
「言われなくても分かっています。幽香様が最強の妖怪だからでしょう」
「馬鹿ね。あなたもクルミもできるはずなのよ。実際できていないのは、魔力不足のせいじゃないわ。ただ、あなたたちが馬鹿なだけ」
そう言い放つと、幽香は背後からクルミを抱きしめた。わずかな抵抗の後、クルミは大人しく目を閉じ、その身を委ねる。幽香の細い指が、滑るように髪を撫でていく。
「聞こえる? この子の呼吸。穏やかでしょう? こうやって撫でてあげると、すぐに落ち着くのよ。だから、この子はまだ救いようがあるわ。太郎をこうやって撫でたらどうなると思う? 『頭を幽香様に撫でていただけるなんて……!』って、大騒ぎするに決まってるわ。それで、私が何もかも難しくしてると思ってるの? メデアちゃん、私をよく見て学びなさい。あなたも、完全に気が狂ってしまう前にね……」
意味深な微笑みが、じっとりと絡みついてくる。
***
(……嫌な夢ね)
じっとりとかいた寝汗の不快感で目を覚ます。
神殿の内部は相変わらず静まり返っており、半透明の幽霊たちが虚ろな足取りで荷物を運んでいるだけだった。
(もしかして、私、忘れられたのかしら?)
周囲を見渡すと、重厚な石のカウンターの奥で、書類に向かってペンを走らせている人影があった。揺らめく松明の灯りの中、ひんやりとした冷気に包まれたその少女は、どこか生気を感じさせない、まるで精巧な作りの人形のような佇まいだった。
「すみません、コンガラ様か明羅さんはどこにいらっしゃいますか?」
声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。
「ここは初めてですか? あ、あなたは生身の人間ですよね?」
「ええ、そうなんです。どうしたらいいか教えてもらえますか?」
「えっと、まずはこの神殿の『滞在者アンケート』に記入をお願いします」
少女は一枚の大きな用紙とインク、そして筆を差し出した。
「私のこと、そんなにじろじろ見ないでください……! 私だって、同じアンケートに記入させられたんですから」
(別に見てないのだけど……)
訝しみながら用紙を受け取る。
「記入が終わりましたら……」
少女は不安げに視線を彷徨わせ、声を潜めた。
「……明羅さんは裏庭で訓練していますし、コンガラ様はおそらく瞑想室にいらっしゃいます。図書室は明羅さんの部屋の隣で、食堂は階段を降りたところに……」
そこで言葉を切り、再び視線を書類へと落とす。
「……だから、今は何も聞かないでください。私には、お答えする資格がないんです」
手渡された紙面に目を落とす。
【静かなる神殿 滞在者アンケート】
名前:_______
性別:_______
年齢:_______
出身地:_______
種族:_______
宗旨または信仰:_______
滞在の目的:_______
お酒を飲みますか? はい/いいえ
喫煙習慣はありますか? はい/いいえ
違法薬物を使用したことはありますか? はい/いいえ
配偶者以外の人と肉体関係を持ったことはありますか? はい/いいえ
あなたの人生における最大の価値観は? _______
(一体、何のアンケートなのよ……。何でも書いていいみたいだけど、馬鹿正直に答える意味なんてあるのかしら。だとして、具体的に何を書けば怪しまれない? それに、これからどう動くべきか……)
ペンの先を見つめながら、メデアは冷たい石の床の上で思考を巡らせた。