魔界の朝は、ひどく歪な明るさで幕を開けた。強烈な熱線が西から東へと地平線を舐めるように移動し、極寒の雪原をじりじりと焼いている。肌を刺すような冷気と、頭上から降り注ぐ矛盾した熱。そして何より、水飴のように重くまとわりつく大気が肺を圧迫した。メデアは耐えきれずに咳き込み、口元を覆った手のひらを見つめる。地獄の塵芥が、まだ喉の奥にへばりついているかのようだ。対照的に、落下地点からイグルーまで運んでくれたユキとマイは、この有毒な空気を涼しい顔で吸い込んでいた。
「ねえメデア、次のステージはどこにする?」
火にかけた釜から顔を上げ、ユキが楽しげに笑いかけてくる。
「エリスのところへ行きたいです。私の魔導書を本当に持っているのか、確かめなければなりませんから」
「エリスなら、きっとウィナの廃墟でくすぶってるわ。あそこは魔界でも特に熱い……というか、ヤバいビートが鳴ってる場所だけど。メデアなら平気よね? だって、あの魔界の門を抜けてきたんだもん」
ユキは意味ありげな視線を、傍らに立つマイへと向けた。
「恐怖心と用心深さは別物です。何も恐れてはいませんが、無謀な真似をするつもりはありません」
「そうね。で、マイと行く? それとも、私とセッションする?」
一面の銀世界に目を向ける。深い雪に足を取られることを想像し、小さくため息をついた。
「マイは散歩に行きたいと言っていましたよね? でも、どうやって向かうつもりですか? まさか歩くわけにも……」
マイはしばらくの間、無言でこちらを値踏みするように見つめていた。やがて、冷たい吐息と共に言葉をこぼす。
「……飛べないの?」
「ええ、飛べません。ですが……」
雪に埋もれたままのひしゃげた自転車に歩み寄り、冷え切ったフレームを両手で包み込む。意識を集中させると、金属の表面が微かに脈打つような熱を帯び始めた。
(この自転車……まさか、私の思考に反応しているのかしら?)
ペダルに足をかけた瞬間、まばゆい光が視界を白く染め上げる。浮遊感に包まれ、次に気づいた時には、車体は雪面を滑るように疾走していた。見下ろせば、それはもはや自転車ではなく、雪上を駆ける流線型のスノーレーサーへと姿を変えている。見た目は子供の玩具のようだが、驚くほど安定していた。スピードを緩め、振り返る。
「わあ! 最高じゃない! そんなビート、初めて見たわ!」
ユキが歓声を上げる。マイはただ黙って、生まれ変わった乗り物を冷徹な眼差しで見つめていた。
「そろそろ出発しますね。ユキ、色々とありがとうございました」
軽く頭を下げ、冷ややかな視線を向ける同伴者に声をかける。
「マイ、準備はよろしいですか?」
マイはふわりと宙に浮き上がり、太陽の軌道から推測される南西の方角を無言で指し示した。
(マイ……何を考えているのか全く読めないわね。まあ、私も無駄口を叩く性分ではないから構わないけれど)
スノーレーサーは雪の砂丘をものともせず、猛烈なスピードで駆け抜けていく。前方を飛ぶマイは一度も振り返ることなく、ただ静かに風を切って先導していた。
ハンドルを握りしめながら、再び喉の奥から咳が込み上げる。呼吸をするたびに、魔界の重い大気が体力を削り取っていく。
(まずいわね……大気がこれほど劣悪だなんて。シンギョクの警告通りだわ。『肉体と魂を貪り尽くす悪魔』……息苦しささえなければ、ここは美しい場所なのに)
不意に、前方の空間が凍てつくような閃光に包まれた。マイが魔法を放ったのだ。遠くの雪原を蠢く無数の気配が、一斉にこちらへ殺意を向けてくる。振り返れば、すでに四方を包囲されていた。
耳をつんざくような電子音と、大気を焦がすレーザーの熱線が交差する。高速で飛び交うそれは、愛らしいドレスを纏った幼い少女の姿をしていた。幽香の屋敷で見かけたメイドたちに似ているが、その無邪気な動きには容赦のない殺意が込められている。
小さな白い弾丸が車体を掠め、衝撃でメデアは雪原へ投げ出された。
(……戦闘用の魔法を習得しなければ、この世界では生き残れないわね)
(これが……魔界の悪魔? あんなに幼い姿をしているのに)
雪まみれになりながら体勢を立て直し、再びスノーレーサーを走らせる。マイは振り返ることもなく、ただ背後へ向けて絶対零度の冷気を放ち続けた。追撃を試みた幼い悪魔たちは、次々と空中で凍りつき、氷塊となって雪原へ墜落していく。
「……遅いわね、あんた」
マイの冷酷な声が、凍てついた風に乗って届いた。
やがて氷雪地帯を抜けると、空気が一変した。乾いた土の匂いと、生ぬるい風。スノーレーサーは雪を失い、硬い地面の上で悲鳴のような摩擦音を立てて急停止した。マイは音もなく舞い降りる。
「もうすぐよ」
マイが顎でしゃくった先には、異様な色彩の植物が絡みつく石造りの遺構と、錆びた機械の残骸が散乱する廃墟が広がっていた。
(また遺跡……。この旅はどうやら、過去の遺物に縁があるようね)
スノーレーサーを引いて歩こうとしたが、雪上での軽快さが嘘のように、地面にへばりついて動かない。力任せに引っ張ると、車体はふっと実体を失い、手の中に一つの小さな光る卵だけが残された。窓付きがいた独房で見つけたものと酷似している。それをポケットへ滑り込ませ、瓦礫の上を歩くマイの背中を追った。
「エリスはここに住んでいるのですか?」
崩れたレンガと錆びた歯車の山を見渡しながら尋ねる。
「あいつは決まった場所にいないわ」
マイは崩落した石壁を軽々と跳び越えながら答えた。
その時、背筋を凍らせるような悪寒が走った。空気がビリビリと震え、得体の知れない重圧が周囲の空間を歪めている。
「たいていは、あの犬小屋みたいな場所で寝てるはずだけど」
マイが指差したのは、崩れた石板が積み重なった薄暗い空洞だった。
「覗いてみたら?」
息を潜め、軋む金属片を踏まないよう慎重に歩を進める。異常な気配は、一歩近づくごとに濃厚になっていく。
「ごめんください。どなたかいらっしゃいますか?」
返事はない。短い光の呪文を唱えて内部を照らすが、埃を被ったガラクタの山があるだけだ。
(魔導書を探すべきかしら。……そもそも、なぜユキとマイは私の本があそこにあると思ったの?)
胸の奥で警鐘が鳴り響く。
(……まさか、罠?)
次の瞬間、大気が爆発したかのような轟音が響き渡り、メデアは凄まじい衝撃波で吹き飛ばされた。瓦礫の山が崩れ落ち、その向こう側から、身の毛もよだつほどの巨大な眼球が虚空へとせり出してきた。一つではない。唸りを上げる電流と共に、次々と空中に現れる。背後からも、同じ低周波のハム音が響き始めた。
完全に包囲されていた。見上げるほどの巨大な瞳孔が、一斉にこちらをロックオンする。視線そのものが物理的な質量を持っているかのような圧迫感。逃げ場のない圧倒的な暴力の気配に、皮膚が粟立った。
最も近くの眼球から、大気を灼くような熱線が放たれる。間一髪で横へ転がり込むと、直前までいた場所の瓦礫が真っ赤に融解した。
(マイは……? まさか、彼女が仕組んだの?)
「中に入りなさい! 私が何とかするわ」
背後から、マイの切羽詰まったような、それでいて冷え切った声が響く。
だが、入り口の方へ視線を向けたメデアの目に飛び込んできたのは、上空から急降下してくる巨大なコウモリの翼だった。
「ちょっと! 何やってんのよ! ユーマちゃんが来たら、ここめちゃくちゃになっちゃうじゃない!」
乱気流を巻き起こしながら降り立った少女が、苛立たしげに叫ぶ。
「ユーマちゃん、今日すっごく腹ペコらしいのよ! ねえ、お嬢ちゃん、マイは放っといて、アタシと行こうよ!」
少女はニカッと悪戯っぽく笑い、メデアに向かって手を差し伸べた。
「さあ、にゃんこちゃん、掴まって。ひとっ飛びするわよ!」
(にゃんこちゃん……?)
「危ないってば! 早くしなさいよ!」
少女は切迫した声で急かす。
「邪魔よ。メデア、永遠に凍りつきたくないなら、さっさとそこに隠れてなさい」
マイは巨大な冷気を手元に圧縮させながら、冷酷に言い放つ。
熱線が頬のすぐ横を掠め、焦げた髪の匂いが鼻をつく。手持ちの魔法のどれ一つとして、この巨大な怪物を退けられるものはない。
目の前には、有無を言わさぬ冷気を放つマイと、胡散臭い笑みを浮かべて手を差し出す未知の少女。
(……一体、どちらを信じるべきなの?)