第40章 魔女たちん家

氷の壁に手をついて立ち上がると、ローブに付着した雪がサラサラと滑り落ちた。激突の衝撃で全身の骨が鈍く軋むが、幸い致命傷はないようだ。

突き刺さるようなマイの問いかけに対し、メデアは穏やかに、しかし相手の出方を窺う隙のない声で応じる。

「初めまして、メデアです。お察しの通り、私はこの世界の者ではなく、人間の世界から来ました」

「ええっ!? ホントに人間の世界から来たの!?」

ユキと呼ばれた少女は目を輝かせ、さらに前のめりに弾むようなステップを刻む。

「ほらね、マイ! やっぱり私の言った通りじゃない! 外の世界の未知なるメロディが、こんなところまで降ってきたんだわ!」

一方で、薄暗い氷の影に佇むマイは、底冷えするような沈黙を保ったまま、絶対零度の視線でこちらの言葉を品定めするように見つめていた。

(過酷な極寒の地に住む魔女……油断はできないわね)

内心の警戒をひた隠しにし、メデアは静かに言葉を続ける。

「凍死寸前のところを助けていただき、感謝します。ところで、私の持ち物を返していただけますか?」

ユキは背後の氷の棚から『静かなる護符』を取り出し、こちらへ差し出した。

「ほら。なんだかヤバいオーラが出てるわ。こんな不協和音を持ち歩くなんて、気をつけてね」。

それを受け取り、今度は硬貨の方へ視線を向ける。

「わかった、わかった! もう、しょうがないわね」

と、ユキがマイの脇腹を小突いた。マイは微かに口角を上げると、刃物のように冷たい仕草で硬貨をこちらへ放り投げる。

「ありがとうございます。……一緒にあったはずの魔導書は、見つかりませんでしたか?」。

「魔導書? なにそれ?」

とユキが首をかしげる。

「ないわ」

マイが冷徹に言い放った。

「じゃあ、こっちに来て」。

ユキに手招きされ、雪と氷で圧縮されたドーム状の空間を抜け、地下の出口から外へ向かう。

外に出ると、強烈な冷たい突風が吹き付けてきた。肌を刺す極寒の大気とは裏腹に、頭上を圧迫する巨大な天体の気配が、ジリジリと焼くような矛盾した熱を放っている。

雪原には、かつて地獄から宇宙までを共に駆け抜けた自転車が、痛々しい姿で埋もれていた。チェーンは外れ、車輪は大きく歪み、雪に突き刺さっている。もはや移動手段としての機能は完全に停止していた。

(……やはり直せない。この最果ての地では、文明の利器など無力というわけね)。

「あんた、どの程度の魔法が扱えるの?」。

自転車の残骸を見下ろしながら、マイが尋ねてきた。

「主に召喚魔法です。基本的には悪魔を扱っていました。なぜでしょうか?」。

「……つまり、あんたは弱いってことね。魔界で最強の魔女と決闘してみない?」。

(戦闘用の呪文がない今、まともにやり合うのは危険すぎるわ)。

「ごめんなさい、また今度に。まだ最強を目指してはいないので」

と、波風を立てないよう丁重に断る。

「じゃあ、準備ができたら来なさい。永遠に凍りつかせてやるわ」。

マイは、すべてを静寂に沈めるような冷酷な笑みを浮かべた。

「マイは氷の魔法を使うのですね?」。

「そうよ。この道のエキスパートよ。ユキはあんたと同じ弱虫だからね。まあ、彼女には言わないで。幸せな夢の中にいさせてあげて」。

(マイ……思ったより好戦的で、厄介な相手ね)。

その間、丘の頂上ではユキがこちらに向かって手を振っていた。

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ユキのもとへ駆け寄り、自分が落下した際にできた深い雪の穴や周囲を調べるが、やはり本は見当たらない。

「ほらね、言ったでしょ? 本はなかったのよ。戻りましょう」。ユキが袖を引く。

「でも、誰かが持っていったと思う理由は?」。

「エリスは面白いものが大好きなのよ。近くに何かを見つけたら、自分のセッションに加えるために何でもするんだから。紹介してあげましょうか?」。

「ええ、ぜひ。大事な本なので」。

地下入り口からイグルーに戻ると、六本の白いキャンドルが暖色系の光を落とす空間が、不思議な安堵感をもたらした。

「お茶、飲む? めったに客は来ないのよ」

と、ユキが火にかけた釜でハーブを煎じている。氷のテーブルは触れても冷たさを感じない。注がれた濃い赤色の飲み物は、ハーブティーとは異なる、濃厚で不思議な味がした。

「マイは氷の魔法を。ユキは?」。

「私は火よ! この冷え切った世界を溶かす、熱いビートの体現者!」

ユキが誇らしげに胸を張った瞬間、マイが冷たい視線でその言葉を切り捨てた。

「お二人は、この環境に長くお住まいなのですか?」

メデアの問いに、ユキは困ったようにマイへ視線を泳がせ、肩をすくめて苦笑した。

魔都市まとしにも私たちの家はあるんだけど……ほとんど戻らないわね。ここでやってる私たちの『セッション』って……あまり大っぴらに人に聞かせられるような代物じゃないから」

「いっそ全部吐き出したら? 何を中途半端に言葉を凍らせているのよ、ユキ」

マイが冷ややかに言い放つ。ユキはたじろぎながらも、こちらへ向き直った。

「えーっと……メデア、もし町へ行く用事があるなら、私たちの空き家を使ってもいいわよ?」

その提案に、マイが再び鋭い氷の刃のような視線をユキへと突き刺した。

(……素性も知れない異邦人に、あっさりと自分の家を貸す? この過酷な世界で生きているにしては警戒心が無さすぎる。それとも、あの口にできない裏稼業とやらに関係する、何らかの意図があるのかしら)

内心の疑念を穏やかな微笑みの裏に隠し、メデアは静かに本題を切り出した。

「お気遣い、心より感謝します。実のところ、私は宇宙船に乗ってここへ来たのですが……見当たらなくなってしまって。この辺りで、それらしきものを見ませんでしたか?」

「空飛ぶ亀に乗った巫女や、箒の魔女は見たけど、宇宙船はないわ。でも、かっこいいわね。で、なんで魔界に?」。

「魔界のどこかにある、アメジストの形をした強力な魔法のアイテムを探しているんです」。

「それならエリスね。宝石のビートを聴き分けるなら、あいつの右に出る者はいないわ」。

マイが口を挟む。

「ユキ、黙って。どうせガラクタの話でしょ? この前エリスに会った時、レティが珍しい宝石を見つけたって言ってたわ。それを盗むために、私がレティの相手をしろって……」。

「そんなバカなことするわけないでしょ。あいつを絶対零度に沈めてやったわ。他に何か用?」。

「レティとは、どのような方ですか?」。

「雪女よ。冬は幻想郷で過ごして、それ以外の季節はここにいるの。宝石を探すなら聞いてみてもいいけど、あいつは気難しいわよ」

とユキが答える。

「あいつはユキには強いかもしれないけど、私なら一瞬で凍らせてやるわ」

とマイが吐き捨てる。

カップを空にし、次のお代わりを受け取ってからさらに問いかける。

「もう一つ……ルイズという人を探しているんですが。彼女の姿に変身した子が、ここへ来て捕まったと聞いて」。

二人は顔を見合わせた。ユキが苦笑交じりに頷く。

「ええ……。堕ちたる神殿の前で、サリエル様に会わされるのを見たわ。助けようとはしたんだけど……」。

「……異常だったわ」

と、マイが言葉を遮る。

(やはり、オレンジが巻き込まれたのね)。

「じゃあ、その子を神殿から連れ出したいわけ? 永遠の静寂に身を投じるようなものよ」

マイがニヤリと笑う。

(確かに、私一人でこの過酷な氷雪世界を踏破するのは現実的ではないわ)。

「厚かましいお願いですが……道案内を頼めませんか?」

と、二人を見上げて要請する。

「もちろん! 一緒にステップを踏んであげるわ!」

ユキが即答し、少し考えて付け加える。

「ただ、誰か一人はここに残ってた方がいいわね」。

マイが人差し指を唇に当て、静かに遮った。

「……わかったわ。私もちょうど、退屈を凍らせに行きたいと思っていたところ。それとも……ユキが行く?」。

「行けるけど……。で、結局どこに行きたいの? エリス? レティ? それとも、サリエル様のところ?」。