刺すような冷気を含んだ湿った風が、石畳の通りを吹き抜ける。雨上がりのように濡れた路面が、両脇の店舗から漏れるタングステンの暖かな光を乱反射していた。
魔界の中央に位置する魔都市は、荒々しい美しさと奇妙な生活感に満ちている。喧騒の中には、肉を焼く香ばしい匂いや、蹄の音、そして魔力特有の微かなオゾンの香りが入り混じっていた。ふと視線をやれば、見覚えのある背格好のメイドが露店で足を止め、店主と何事か交渉しているのがわかる。青白い夕暮れの底で営まれる、悪魔たちの極めて人間的な日常風景。先ほどまでの血生臭い死闘が嘘のように、ここには場違いなほどの安息が漂っていた。
「やっぱり一泊二千シンキは高すぎるわ。あの宿は諦めましょう」
「魔女たちの家に行くんだ? 用心しなよ」
エリスが呆れたように鼻を鳴らす。
「ええ。私とオレンジで鍵を取りに行ってくるから、エリスは町で待っていて。宿代も浮くし」
自分の名前を耳にした途端、傍らで退屈そうにしていたオレンジが勢いよく飛び跳ねた。
「オレンジに任せてよ! ぜーんぜん眠くないし、どっか行きたいの!」
(後でたっぷり連れ回してあげるから、今は大人しくしていて)
内心の疲労を押し殺し、エリスに向き直る。
「わかったわ。『人間の味わい』で待ってる。でも、もし戻ってこなかったら……探しには行かないからね」
軽く手を振るエリスと別れ、魔都市の喧騒を背にする。人気のない場所まで来ると、ポケットから青く淡い光を放つ卵型のアーティファクトを取り出した。表面を軽くこすると、虚空が歪み、真新しい自転車がふわりと目の前に実体化する。
「わぁ! すごーい! ねぇメデたん、その卵、一体どこで手に入れたの!?」
オレンジが目を輝かせて自転車の周りを飛び回る。
「たまたま拾っただけよ」
(あの不思議な少女に返す義理はないわ)
「ところでオレンジ、飛べるわよね?」
「もちろーん! 飛ぶだけじゃなくて、いろ〜んなこともできるんだから! 見ててね!」
自慢げに胸を張り、ふわりと宙に浮き上がる。その軽やかな動きは、重力という概念を完全に無視していた。
「じゃあ、ついてきて」
ペダルを踏み込み、冷たい風を切って進む。オレンジは楽しげに鼻歌を歌いながら、並走するように宙を滑ってきた。
「ねぇ、メデたん! シンギョクの門を通ってここに来たの?」
「ううん、二人の科学者の宇宙船に乗せてもらったのよ。堕ちたる神殿の近くにあるはずだから、明日探しに行きましょう」
森へ続く道は長く、冷気が次第に強くなっていく。道中、強い魔力を放ちながら飛び交う妖精たちと何度かすれ違ったが、こちらに追いつけないと悟るとすぐに引き返していった。
「メデたん、ちょっと止まって! あいつら、ぶっ飛ばしてやろうよ!」
「今はダメ。どうせまたすぐに戦うことになるんだから……。そういえば、弾幕を撃つ時にチャクラを使う方法、エリスに教わったのだけれど。オレンジはチャクラって知ってる?」
「チャクラ? なにそれ?」
頭上でホバリングしながら首を傾げる。
「体の中にあるエネルギーの中心よ。そこを通して魔力を練り上げると、弾幕の色や性質が変わるの」
「ああ! お腹を通して撃つってこと? こうでしょ?」
オレンジは自身の下腹部、第二チャクラであるスヴァディシュターナの辺りを指差した。
「えっ、みんな違うの?」
言葉と同時に、鮮やかなオレンジ色の魔力弾が数発、無造作に放たれる。虚空を一直線に飛んだそれは、不運にも群れをなしていた野生の妖精たちに直撃した。
甲高い悲鳴。静寂が破られ、激怒した妖精たちが一斉に舞い上がり、こちらへ殺意を向けてくる。
(……本当に、トラブルを引き寄せる天才ね)
スノーレーサーと自転車が融合したようなこの乗り物では、機敏な回避は難しい。オレンジが嬉々として応戦している隙に、防御魔法の展開を試みる。
突如、死角から回り込んだ妖精の一体が、オレンジの背後から強烈な弾幕を放った。
咄嗟に喉のチャクラに意識を集中させる。青白い防御フィールドが瞬時に広がり、オレンジの背中を覆い隠した。弾幕がシールドに激突し、乾いた破裂音が響く。反動でたじろいだ妖精の隙を突き、魔力の塊を正確に撃ち込んだ。妖精は断末魔と共に空中で霧散する。
(私にも、他者を守る盾が展開できる……)
確かな手応えに息を吐く。一方のオレンジは、炎の輪すら展開せず、まるで鬼ごっこでも楽しむかのように空を駆け巡っていた。
森を抜けると、肌を刺すような極寒の空気が全身を包み込んだ。太陽はすでに沈みかけ、どこまでも続く真っ白な雪の砂丘が、夕暮れの茜色と不気味な紫色のグラデーションに染まっている。
凍てつく風に耐えながら進むこと十分。雪と氷で作られた半球状の建造物――ユキとマイのイグルーに到着した。
入り口の前に立ち、硬い氷の扉をノックする。返事はない。
「ドアを壊しちゃおうよ! それとも溶かして! それで鍵を奪っちゃえばいいじゃない!」
「しーっ、オレンジ! それはちょっと……待った方がいいわ」
周囲には風の音しか聞こえない。二分ほど外で待機したが、中からの反応は皆無だった。
痺れを切らしたオレンジが、扉を軽く押し込む。拍子抜けするほどあっさりと、氷の扉が内側へ開いた。
「おじゃましまーす!」
弾かれたように中へ飛び込んでいく背中を見て、小さくため息をつく。
「おーい! 誰かいるー?」
「もう帰ろう……」
呟きは虚しく氷の壁に吸い込まれる。オレンジは家主を探すのに夢中で、まったく耳を貸さない。仕方なく、せめてユキとマイの部屋だけでも確認しようと、近くのドアを押し開けた。
冷ややかな空気が漂う室内。中央には、精巧に彫り込まれた氷のテーブルと椅子が鎮座している。天井の隙間から差し込む青白い光が、氷の結晶に乱反射して幻想的な影を落としていた。
「ユキ? マイ?」
返答はない。諦めて部屋を出ようと踵を返した瞬間。
ガチャン、という硬質な金属音が足元で鳴った。
(……何……?)
足首に、異様なほどの重量感と冷たさが食い込んでいる。視線を落とすと、太く無骨な鉄格子が、床から天井に向かって瞬時にせり上がり、部屋の入り口を完全に塞いでいた。
薄暗かった室内に、ランタンの暖かなオレンジ色の光が唐突に灯る。
檻の中に、一人取り残された。
「歓迎するわ、異邦人さん。ごめんなさいね、メデア」
背後から、聞き馴染んだ声が響いた。鉄格子の向こう側、通路の影からユキとマイがゆっくりと姿を現す。ユキはどこか退廃的な笑みを浮かべ、マイは絶対零度のような無表情を貫いている。
「こうするしかなかったの。あなたの刻むビート、結構好きだったんだけど」
「個人的な恨みはないわ。……ただのビジネスよ。永遠に凍りつきたくないなら、大人しくしていなさい」
「ちょっと、どういうこと!?」
鉄格子を掴み、力任せに揺さぶる。びくともしない。冷たさが手のひらから体温を奪っていく。二人はそれ以上何も語らず、暗い通路の奥へと消えていこうとする。
(……くそっ……! まんまと嵌められたわね)
ギリッと奥歯を噛み締め、二人の背中を睨みつける。
「へぇ、てめぇがメデアってわけか」
底冷えのする空間に、粘りつくような女の声が響いた。
背筋を這い上がるような悍ましい悪寒。通路の奥から歩み出てきたその存在は、鉄格子のすぐ外側に立ち、檻の中の獲物をゆっくりと値踏みするように覗き込んだ。
その背から放たれる天使のような神聖な気配と、獲物を弄ぶような残忍な笑み。圧倒的な捕食者の気配が、分厚い鉄格子の向こう側から首を絞め上げてくるようだった。
届かないランタンの暖かな光が、檻の中の圧倒的な孤独と寒さを逆説的に際立たせている。
「あなた、誰?」
震えそうになる声を喉の奥で押さえつけ、睨み返す。
「アタシのこと? 幻の月って呼んでちょうだい。……まあ、名前なんてどうでもいいけどね。ここで質問するのは、てめぇじゃねぇんだよ、魔女」
女は鉄格子を乱暴に掴み、不敵な笑みを深めた。
「あの二人、てめぇを売っちまったんだ。さもないと、神綺様にバラされちまうからさ。神綺様って知ってるだろ? てめぇはもう、魔界のこと色々知ってんだろうね? しかも、魔界だけじゃなさそうだしなぁ……?」
「私に何の用よ?」
「てめぇの目的は何よ? 地獄で何を企んでた? どうして地獄からいきなり魔界に来たんだよ? ただの旅行者じゃなさそうね?」
捕食者の瞳が、ひっそりと細められる。
「さっさと吐きな。さもないと、塵にしてやるよ、この魔女!」
その瞬間、通路の奥から氷の扉が砕け散る轟音が鳴り響いた。
「メデたん、危ない!」
猛烈な熱波と共に、オレンジが通路に飛び込んでくる。彼女は一切の躊躇なく、目の前の強大な悪魔に向かって炎の輪を叩きつけた。
「あら、お友達? それとも共犯者かしら?」
女は面白がるように鼻で笑うと、背後の気配をわずかに動かしただけでオレンジの攻撃を完全にいなし、返す刀で凶悪な魔力の弾幕を二発放った。オレンジは間一髪でそれを避けるが、体勢を大きく崩す。
「逃げる? それとも死ぬ? どっちにしろ、てめぇに勝ち目はねぇけどな!」
けたたましい笑い声が、氷の洞窟に反響する。
冷たい鉄格子を握りしめたまま、懐のクリソプレーズにそっと指を這わせる。
攻撃か、防御か。女と交渉を試みるか。それともオレンジに撤退の指示を出すか。
(落ち着きなさい、考えるのよ……)
刻一刻と削られていく生存確率の中で、メデアの脳髄は極限まで冷たく回転し始めていた。