魔都市の郊外。黒焦げになった草むらに、悪魔のメイドの遺体が放置されていた。救急隊の姿などあるはずもなく、このままではケルベロスの餌食になってしまうかもしれない。だが、余計な注目を集めぬよう、遺体はそのままにしておくことにした。周囲に人影がないのを確認し、服の中を探る。ちゆりは息を呑み、不安そうに見守っていた。
(あった……!)
指先に触れた硬い感触を引き出す。黒く焦げた小さな金属板には、辛うじて判読できる文字が刻まれていた。
名前:妖奈
職業:メイド
所属:北棟
「そんなことして……、大丈夫なの?」
ちゆりが恐る恐る口を開く。
「ええ、もちろん」
金属板を懐にしまいながら、静かに振り返った。
「手がかりが見つかったわ。このまま放っておくわけにはいかない。事件を調べるために、パンデモニウムへ行くつもりよ。ちゆりも協力してくれる?」
「あそこ……?」
ちゆりは、魔界のどこからでも見える、空を切り裂くようにそびえ立つ塔を指差した。
「まさか、あのパンデモニウムへ行くつもり……? わかった。もしかしたら燃料か、その材料が見つかるかもしれないし。行くよ! ……でも、夢美様に知らせないと」
「船に戻るの?」
「ううん、大丈夫」
ちゆりは腰に固定された無線機を取り出し、スイッチを入れる。
「岡崎様、こちら北白河。応答願います」
特徴的な雑音の後、無線機から苛立った声が返ってきた。
『――ジージー――何よ、もう! どこ行ってたのよ! ――サササ――』
「私と二人で、パンデモニウムへ行く。燃料を探してくるから、信号弾を発射したら助けに来てくれ」
『――ザーザー――了解。気をつけて。――サササ――夕食までには戻ってきてね。――サササ――』
「了解! ……じゃあな!」
***
けばけばしい色彩と高い尖塔が林立する魔都市は、二人をまるで存在しないもののように飲み込んだ。相変わらず喧騒と怠惰が渦巻くこの街に、変化の兆しはない。まずはエリスを見つけようと、居酒屋「人間の味わい」へ向かった。
店内はいつものように活気に満ちていたが、目当ての姿はない。カウンターにいる、見覚えのあるウェイトレスに声をかける。
「こんにちは。エリスはここにいませんか?」
ウェイトレスは軽く会釈して答えた。
「いらっしゃいませ。お友達なら、ついさっきまでここにいましたけど、もう帰っちゃいましたよ」
「どこへ行ったか、何か言ってましたか?」
「さあ……。聞いてないですねぇ。ただ、エールを2本、持って帰ったみたいですよ。何か注文されます?」
「いえ、結構です。急いでいるので」
ちゆりに顎で合図し、店を出ようとする。
「ところで、最近、この街で何か変わったことありませんでしたか? 大きな事件とか……」
「さあ、それもちょっと……」
ウェイトレスは足早に隣のテーブルへ移動した。そこには角を生やしたいかつい男性悪魔が二人、ひどく酔っ払って座っており、彼女の豊満な体つきについて下卑た笑い声を上げている。
(……エリス、どこへ行ったのやら)
諦めきれず、ゴミが散乱する路地裏を歩きながら考えを巡らせる。見覚えのあるケルベロスが、今日もゴミ箱をひっくり返して漁っていた。
(……朝ご飯だったのは、こいつの肉じゃないみたいね)
「ねぇ、誰を探してるんだ?」
ちゆりがレーダー画面を覗き込みながら尋ねる。
「地元の悪魔、エリスよ。パンデモニウムに行くのに、あの子の力が必要なの。でも……どこにいるのかさっぱり……」
そうこぼした瞬間、背後から温かく柔らかい指が両目をつつんだ。
「だーれだぁ〜?」
ちゆりが反射的にブラスターに手をかける。それを手で軽く制した。
(……本当に神出鬼没ね)
満面の笑みを浮かべるエリスを伴い、三人は再び「人間の味わい」へ戻った。ちゆりを紹介し、これまでの出来事をかいつまんで説明する。エリスは上機嫌で、すでに半分ほど空になったエールのジョッキを掲げた。
「二人とも、付き合ってよ! 今日はアタシのおごりだから!」
「エリス、一体どこで何をやってたの?」
「メデっちを待ってたのよ! 飲んだり、寝たり、また飲んだり……。で、今朝はある黒魔術師から借金を取り立てて、大儲けしちゃったの! だから、今日はもう遊び放題! 人生ってサイコーよね!」
「みんなにとって最高ってわけじゃないみたい。エリス、これ」
妖奈の金属板をテーブルに滑らせた。
「……何これ? まさか……!」
目を凝らして文字を読んだ途端、いつもの生意気な笑顔が消え失せ、血の気が引いていく。
「妖奈……死んでいるわ。ステーキみたいに黒焦げで……。さっき郊外で見つけたの。私の目の前で、息を引き取った」
「かわいそうな妖奈……。何か最期の言葉は?」
「神綺様の名前を……呟いていたわ。それと……『アリスが戻ってきた……』『あなたたちは……彼女を……止めなきゃ……』それだけ」
「アリス……? それは……予想外ね……。まさか、アリスが……?」
グラスをテーブルに乱暴に置き、ウェイトレスを呼んでカウンターにシンキを放り投げた。
「それはまだわからないわ。でも、真相を突き止めないと気が済まないの。手伝ってくれる?」
ちゆりはエールのせいで顔が赤らんでいたが、アルコールは全く効いていない。
「ちょ、メデアさん!? 一体、何を企んでんのさ!?」
「ふふっ、メデっちの女優魂が疼いてるんじゃない? さあ、お二人様を魔界最高のブティックにご案内する時間よ。今回はアタシが奢っちゃうわ!」
昨日ケーキを食べたカフェのすぐ近くに、大きな服屋があった。所狭しと並べられた衣服や装飾品が目を引くが、目的を見失うわけにはいかない。エリスは迷うことなく、特定のコーナーへ二人を押し込んだ。
「ちょ……! さすがにこれは……」
ちゆりが怪訝そうに顔を引きつらせる。
「ちゆりん、これ着てみなよ! 超似合うと思うわ〜。アタシ好みの可愛い子ちゃんに変身よ!」
不本意な試着を強いられ、全身の筋肉が強張る。鏡越しに映る背後の満面の笑みと、肌を刺すような冷ややかな空気が、この閉鎖的な空間における圧倒的な支配力を物語っていた。抵抗しても無駄だという無言の圧力が、肩に回された腕からじわじわと伝わってくる。
エリスは張り切って様々な衣装を押し付けてきた。冷静に品定めを続ける横で、ちゆりは顔を真っ赤にして恥じらっている。最終的に目立たないものを選び取り、内ポケットに「実践的悪魔学」とクリソプレーズを滑り込ませた。ブーツとローブはエリスに預けることにする。
***
「二人とも、めっちゃ可愛いじゃん!」
満足げなエリスをよそに、ちゆりはすっかり酔いが覚め、深いため息をついた。普段は何でも相談に乗ってくれる夢美とは違い、こちらの独断で計画が進むことに内心面白くないらしい。
商業地区を抜け、中央広場を通り過ぎると、パンデモニウムへと続く坂道に出た。宮殿は街の中心にそびえ立つ巨大な岩山の上に建っている。ジェット箒を使えば一瞬だが、目立ちすぎるため、重い足取りで登るしかなかった。
頂上に到着すると、視界が一気に開けた。
重く淀んだ大気が、肌に纏わりつくような不快な湿度と奇妙な熱気を帯びている。血のように赤い空と、眼前に広がる毒々しい色彩の植物群。張り詰めた緊張感と明確な敵意が、無言の威圧感となって真っ直ぐに胸を突いてきた。
「つまり……私たちはこれになりすまして、パンデモニウムに潜入するってことね?」
念を押すように尋ねた。
「そうよ、メデっち。その姿なら、余計な騒ぎを起こさずに済むでしょ? 自然に振る舞って、周りが何をしているか、よ〜く観察してきてちょうだい。残念ながら、金属板は手に入らなかったわ。あそこの者で、妖奈以外に知り合いはいないのよ。……まあ、メデっちがもう少し早く決断してくれてたら、話は別だったんだけどね……。とにかく、アタシの貢献も忘れずに、お宝探し、頑張ってね! それと、アタシをパンデモニウムに侵入させる方法も、忘れずに考えといてちょうだい。期待してるわよ。アタシは『人間の味わい』で待ってるから」
ぎゅっと力強く抱きしめると、エリスは岩の上からひらりと飛び降り、街の喧騒へと消えていった。
ちゆりはあてがわれた衣服がよほど気に食わないのか、大げさな仕草で歩き始めた。正門に近づくと、小柄な少女二人が大きな箱を何とか運んでいるのが見えた。
「奈々、姿勢を正して。そのままだと腰を痛めるわよ!」
「もう無理……。ちょっと休憩しよ……」
足音を忍ばせて近づき、声をかける。
「手伝いましょうか?」
「あら、二人とも、やっと来たのね! 遅いじゃない!」
苛立ったように言い放ち、箱を地面に置いた。
(よし、潜り込めたわ)
箱は想像以上に重く、息を合わせながらようやく宮殿の中へ運び込む。ふと、箱から微かな物音と魔力の気配を感じ、恐る恐る自身の魔力を流し込んでみたが、底なし沼のようにすべて吸い取られてしまった。
正面玄関を抜けると、空気は一変した。
硬質で滑らかな石材に囲まれた空間は、ひどく冷たく、そして乾燥していた。広大なホール特有の静寂の中、衣擦れの音と硬い靴音だけが冷ややかに反響する。無機質で圧倒的なスケールに押し潰されそうになる中、整然と行き交う足音の規則性が、儀式的で厳格な緊張感を生み出していた。
階段の脇に箱を下ろすと、他の者たちがすぐにそれを受け取り、地下へと下りていった。
「ちゆり、すっかり板についてるじゃない。この隙に、宮殿中を探検しましょう」
声を潜めて耳打ちする。
「了解! 地下室は絶対何か面白いものだらけだよ!」
目を輝かせたちゆりは、周囲の目を盗んで慎重にブラスターを取り出し、側面の画面を見せてきた。
「見て。このレーダー、緑は生き物で、白はアストラル放射の発生源なんだ。……それにしても、この宮殿、複雑怪奇だな! どこから調べればいいか迷っちまうよ。別行動にした方が効率的じゃない?」
「でも、迷子になったらどうするの?」
「大丈夫! 予備があるからさ!」
小さな無線機を押し付けてくる。
「いつでも連絡取れる。私はまず、四次元物質を探すよ。空気の化学組成を調べれば、何か手がかりが見つかるかも」
「ちょっと! まだ休憩時間ではありませんよ!? 何をしているのですか? サボる気ですか?」
背後から、氷のように冷たく鋭い声が飛んできた。振り返ると、他の者とは明らかに一線を画す、研ぎ澄まされた刃のような威圧感を放つ女性が立っている。
(……まさか、この人がメイド長の夢子……?)
彼女はこちらをねめつけ、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で言い放った。
「まあ、よいでしょう。地下室へ行き、武器の整理を手伝いなさい。戦争が近づいています。当然、あなたたちにも協力してもらうのですよ」
顎で地下への階段を示す。
「それが終わったら、夕食前に食堂の掃除です。北棟の床も、まだ拭いていませんね? さあ、さっさと仕事に戻りなさい。トイレ掃除がよいのですか? 働かない者には、容赦なくお願いするのですからね。まったく、お嬢様の髪のお支度も控えているというのに……。こんな怠け者たちの相手をしなければならないなんて。夕食の準備も始めなければなりませんし……。本当に、忙しいのですから」
足音を響かせて階段を上がっていくその後ろ姿を見送る。ちゆりと顔を見合わせた。頭の中で冷徹な指示がぐるぐると回り、途方に暮れる。大人しく地下室へ向かうべきか。それとも、この隙に調査を強行するか。地下で働く者たちに話を聞けば、何かわかるかもしれない。いや、むしろ、あのメイド長に直接接触を試みるべきか……。
(……一体、どう動くべきかしら)