第55章 北棟

アリスはあどけない少女の姿のまま、愛らしい仕草で神綺へ擦り寄っていく。

「ママ、プレゼントの準備ができたわ! ……あれ? このお姉さん、誰? メイドさん? アリス、二人だけで渡したかったのになぁ……」

(創造主へのプレゼント……? まさか、キクリの王冠と同じような罠か……?)

心臓を鷲掴みにされるような鋭い痛みが走る。今すぐ止めなければ、取り返しのつかない事態に陥るという確信めいた悪寒があった。

もし妖奈の凄惨な死や、あの不条理な侵攻計画を知らなければ、アリスの無邪気さを疑うことなどなかっただろう。だが、彼女の背後に潜む得体の知れない悪意が、警鐘を鳴らし続けている。

(まさか、アリスの奴……私が何者か見抜いている? そんなはずはない。でも、もしそうなら……!)

神綺の反応を注意深く窺いながら、視線を外さずに静かに答える。

「ええ、メイドです。失礼いたしました」

神綺はわずかに眉をひそめたものの、それ以上の追及はなかった。アリスは人形のような虚ろな瞳で、ただじっと神綺を見つめている。

(こんな下手な言い訳で、神綺の心に少しでも疑念の種を蒔けたかしら……)

恭しく一礼し、足早に書斎を後にした。

重厚な扉を抜けるなり、待機していたちゆりを暗がりへ引き寄せ、声を潜める。

「ちゆり、今すぐ書斎に戻って神綺に伝えて。『夢子さんが緊急にお呼びです。至急来てほしいそうです』って。それを伝えたら、すぐに北棟の地下室へ向かってちょうだい。一刻を争うわ」

「……え?」

突拍子もない指示にちゆりは目を丸くしたが、事態の切迫感を察してすぐさま書斎の扉へと取って返した。

何十段もある滑らかな石段を、転げ落ちるような勢いで駆け下りる。

(間に合って……! 神綺がアリスの“プレゼント”を受け取ったら……一体何が起こるというの……?)

二階の踊り場で通りかかったメイドを捕まえ、息を切らしながら問い詰める。

「すみません、北棟はどちらですか?」

「廊下の突き当たりよ。壁の色が変わっているから、すぐにわかるわ」

メイドたちは、髪を振り乱して血相を変える奇妙な新入りを、不審げな目で見送った。

一階のアーチを抜けた瞬間、背後の階段上部から慌ただしい足音が響いてきた。

(誰か追ってきた……?)

咄嗟にポケットへ手を突っ込み、冷たいクリソプレーズを固く握りしめる。相手の姿を確認するより早く、迎撃の体勢に入った。

「メデア、何やってんだよ!? 正気か!?」

石の隙間から禍々しい緑色の光が漏れ出すのを見て、追いついてきたちゆりが悲鳴に近い声を上げて後ずさる。

「ごめんなさい、ちゆり。少し焦っていたみたい。……それで、神綺は部屋を出たかしら?」

手の中の宝石の光を抑え込み、ちゆりの腕を引いて再び走り出す。

「あ、あの白い髪の人だろ? うん、何か慌てた様子で出て行ったよ」

「アリスは? あの小さい子は、どうしていた?」

「えーっと、多分……部屋を出たと思うんだけど……。なぁ、一体何が起こってんだよ!? ちゃんと説明してくれ!」

「昨日、私を追ってきた悪魔のこと、覚えているかしら? 夢美さんたちと宇宙船で助けてくれた時の……。あの悪魔とアリスは、何か関係があると思うの。もしそうなら、この宮殿は本当に危険だわ」

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冷たく硬質な大理石の空間に足を踏み入れた途端、張り詰めた空気が肌を刺した。焦燥に駆られて飛び込んできた侵入者に対し、清掃作業の手を止めたメイドたちが一斉に敵意と驚愕の入り混じった視線を突き刺してくる。けたたましい足音だけが、鏡面のような石壁に鋭く反響していた。

「すみません。この棟の地下室って、どこですか?」

強張る空気を無視し、最も近くで呆然としているメイドに問いかける。

「地下室……? あそこには行かない方がいいわよ。変な物音がするし、それに……奈々も地下室へ行ったきり、行方不明になっちゃったの……」

恐怖に引き攣ったメイドの瞳が、事態の異常性を如実に物語っていた。

「お願い、場所だけ教えてちょうだい」

「廊下の左側よ。らせん階段を降りて、一番下のドア。そこが地下室……」

「ちゆり、ブラスターの準備を」

冷え切ったらせん階段を慎重に下り始める。ちゆりも無言で背後へ続き、足音を殺して追従してきた。

(……いつからこんなに疑り深くなったのかしら。まあ、常に追われる身としては当然の防衛本能ね)

最下層を塞ぐ重厚な鉄のドアには、当然のように鍵が掛かっていた。

「メデア、奥に何か反応がある……」

ちゆりがレーダー画面の明滅を見つめ、ひきつった声で囁く。

「ええ、きっとそうでしょうね。でなければ、わざわざこんな場所に隠したりしないわ」

ドアの表面に手を当てて解錠の呪文を唱える。内部で金属の噛み合う鈍い音が響いたが、ドアは数ミリ動いただけでピタリと止まった。

「内側から何か重いもので塞がれているみたい。一緒に押してちょうだい」

二人がかりで体重をかけると、わずかな隙間が生まれた。ちゆりがすかさずブラスターの銃口を差し込み、磁石機能を作動させる。不快な金属音を立てながら、鋼鉄のドアが強引に押し開かれた。

「魔法の光」

の呪文で澱んだ闇を照らし出すと、ドアを塞いでいた障害物の正体が露わになった。

それは、無造作に打ち捨てられたメイドの死体だった。

「ひっ……!? だ、誰……? 私たちが……ドアを開けたせいで……殺しちまったのか……?」

ちゆりは恐慌状態に陥り、頭を抱えて自身の髪を乱暴に掻き毟る。

「落ち着きなさい、ちゆり。すでに死後硬直が始まって、完全に冷え切っているわ」

遺体に触れて冷静に状況を分析する。その姿は、今朝方大きな箱を運んでいた「奈々」というメイドに間違いなかった。

「この宮殿には、私たち以外にも殺人鬼がうじゃうじゃ潜んでいるみたいね」

パニックを起こすちゆりの肩を軽く叩き、立ち上がる。

「行きましょう。私の背中をしっかり守ってちょうだい」

ちゆりは震える息を吐き出しながら、なんとかブラスターを構え直して深い闇の中へと足を踏み入れた。カビ臭い湿気と、すべてを飲み込むような暗闇。魔法の光芒すら、足元数メートルを照らすのが限界だった。

廊下の角を曲がると、虚空からか細い男の肉声が響いてきた。

「……だから私は彼女たちを創造した。理解できないのか? なぜ説明が必要なんだ? 私はアリスを愛している。分かるだろう? 君の世界観、創造性、知性……そして美しさ。アリスは全て完璧で、世界は君を中心に回っている。だから……私は……力ずくで……いや、力ずくでなくても、主張することさえ……できなかった……」

声の出処を探って奥へ進むと、壁際を埋め尽くすガラクタの山に埋もれるようにして、金色の額縁に縁取られた巨大な鏡が鎮座していた。男の狂気じみた独白は、その鏡の深淵から漏れ出ている。

「……だから私は諦めた。命について話したことを覚えているか? アリスは、人間は命のないものに命を与えられないと言った。あの時、一緒に試しただろう? ……彼女たちはただ命令に従うだけだった……。覚えているか……? ……」

鏡の表面に指先を這わせると、固いガラスの感触はなく、冷たい水面のように手がすり抜けていく。

(……別の空間へ繋がる通路のようね)

「……だが、アリスは間違っていた! 私は成功した。魂の一部を与えるだけでいい。創造物のために、自己愛を捨てるんだ。だが、私が欲しいものを手に入れられたと思うか? それも違う! 彼女たちは自立しすぎていた。皆よかったが……欠点もあった。私が欠点をどう思うか、知っているだろう……」

(誰の言葉かは分からないけれど……。彼が、この宮殿の異常事態の謎を解く鍵になるかもしれない)

警戒しながら鏡の奥へ顔を突き入れる。

光の呪文を弾き返すような漆黒の空間に、破れたトランプや四肢のもげた人形が散乱しているのが微かに見えた。声はさらに生々しく鼓膜を打つが、男の姿はどこにもない。

「……私は彼女たち全員を愛していた。もちろん、アリスほどではないが……。彼女たちの中から、たった一人の完璧な子が見つかることを願っていた……。しかし……その願いは何ももたらさなかった。敵意を蒔いただけだった。私は……後悔している……。アリスは私の声を聞いてくれるだろうか……? 理解してくれるだろうか……? 私と一緒に……あの時のように……いてくれるだろうか……? 君は……私と一緒にいて、不幸だったかい……? ……ああ、そうだ、謝らなければ……。あの本を取ってくるように頼むべきじゃなかった……。あれは……全てを破壊した……。でも、もう何年も経った……。アリス……。私の声を……聞いてくれるか……? ……」

ちゆりに無言で肘を突かれ、ハッと我に返って鏡から身を引き抜く。ちゆりは極度の緊張で震えながらも、ブラスターを構えてメデアの前に立ちはだかっていた。

「ええ、お待ちしておりましたわ」

地下室の澱んだ空気を切り裂くように、底冷えのする女の声が反響した。

光の呪文の出力を最大に引き上げると、薄暗闇の中に人影が浮かび上がる。

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豪華絢爛な上層の宮殿とは対照的な、埃とカビの臭いが立ち込める粗雑な石造りの回廊。逃げ場のない閉鎖的な一本道で、その少女は明確な殺意を湛えて立ちはだかっていた。

周囲の空気が急激に熱を奪われ、肌が粟立つ。心臓が警鐘を鳴らすほどの極度の緊張感の中、冷たい青白い魔法の光が、彼女の冷酷で理知的な表情を不気味に照らし出している。上層で遭遇したメイドたちのような動揺や感情の揺らぎは一切なく、純粋に侵入者を排除するためだけに研ぎ澄まされた、ひどく危険な気配がそこにあった。

(……まさか、カナ? いや、別人のようね……)

少女は表情ひとつ変えず、ひどく丁寧な、それでいて嘲りを隠そうともしない声音で紡ぐ。

「お遊びは、もうおしまいですわ。じめじめした土の下で、ゆっくりとお眠りなさい」

少女が滑らかな動作で片腕を掲げると、深い藍色の魔力が暴力的な渦を巻き始めた。次の瞬間、放たれた致命的な光弾の雨が殺到するが、激しい閃光は的を外れ、背後の鏡の深淵へと吸い込まれるように消滅していった。