第56章 濡れた鏡

地下室は、展開した光の呪文さえ届かないほど広大な暗闇に包まれていた。暗がりから襲い掛かってきた存在は、以前氷雪世界で対峙したマイのように「決闘」という遊戯を楽しむつもりは毛頭ないらしい。純粋な殺意の塊だった。相手の正体を探る猶予などない。

「ちゆり、ブラスターで応戦して! 防御はフィールドを張るのよ!」

殺到する藍色の弾幕を間一髪で躱しながら、背後に叫ぶ。

「でも、フィールドの張り方なんてわかんないよ!」

悲鳴のようなちゆりの声が冷たい石壁に反響した。

(しまった、教え忘れていたわ……!)

思考を切り替え、下腹部に意識を集中させる。無理やり右手に魔力を引き上げると、体内を巡るオレンジ色のエネルギーが背骨を這い上がり、腕の脈拍を打ち鳴らすのを感じた。普段使い慣れた第五チャクラのヴィシュッダであれば、喉元からスムーズに魔力を放てる。しかし、第二チャクラのスヴァディシュターナから汲み上げた力は、どこか淫靡な熱を帯び、内側から微細な針で刺されるような酷い不快感を伴っていた。

放たれたオレンジ色の光弾は、虚空を滑るように左へ移動した敵の残像を掠めるに終わった。だがその直後、ちゆりの放った青白い閃光が、敵のいた空間を正確に焼き払う。

鼓膜を劈くような金属音。激昂した気配が遠ざかったかと思うと、今度は速度こそ遅いものの、密度と威力を増した藍色の凶弾が雨あられと降り注いできた。

「魔力の流れを逆にするのよ! 攻撃の時とは逆に!」

息を切らしながら、迫り来る死の軌道を紙一重で躱し続ける。

背後で大気が震える感覚があった。ちゆりがブラスターの構えを変え、意識を集中させたのだろう。青白い閃光の代わりに、藍色の膜が彼女の周囲を覆い、殺到する弾幕を音もなく飲み込んでいく。即席の防御フィールドは機能したらしい。自信を取り戻したのか、ちゆりは再びブラスターの銃口を闇へ向け、容赦ない反撃を開始した。

戦況は持ち直したかに見えた。しかし、ちゆりの援護に気を取られた一瞬の隙が命取りとなった。

暗闇から無音で飛来した藍色の弾体が、防御の薄い腕を掠める。肉が焦げる凄惨な臭いと、骨髄まで達するような灼熱の痛みが脳髄を焼き切った。歯を食いしばって呻き声を殺し、報復のオレンジ色の弾幕を乱れ撃つ。数発が闇の奥で鈍い破裂音を立て、何かが焦げる嫌な臭いが漂ってきた。

確かな手応え。しかし、敵は沈むどころか、さらに速度を上げて距離を詰めてきた。壁面を這うように屈折する不規則なレーザーの軌跡が、逃げ場のない死の網目を編み上げていく。

(あれは、躱しきれない……!)

咄嗟にちゆりの背後、防御フィールドの影へと転がり込む。懐から『実践的悪魔学』の魔導書を引き抜き、乱暴にページを繰った。

(試してみるしかないわね……!)

目当ての召喚術式を見つけ出す。

藍色の膜が限界に近い悲鳴を上げている。背後にそびえる冷たい鏡の前に立つと、深く息を吸い込み、ガラスの表面に勢いよく息を吹きかけた。淀んだ地下の空気に触れた鏡面が、みるみるうちに白く曇っていく。指先でひんやりとした結露をなぞり、素早く五芒星の印と、あの軽薄な悪魔の名前を魔界の文字で刻み込む。

崩壊の危機に瀕したフィールドを維持するため、ちゆりは絶え間なく動き回りながらブラスターの引き金を引いている。彼女の放つ強烈な閃光と、敵の放つ電撃の轟音が、分厚いガラスの向こう側で荒れ狂う嵐のように交錯していた。

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メデアはガラスの表面に刻んだ印の両脇に手を添え、喉の奥から力を振り絞って詠唱した。

「召喚! 『濡れた鏡』の術!」

乾いた砂が水を吸い込むように、体内の魔力が根こそぎ奪われていく。鏡面に描かれた印が琥珀色の炎を上げて燃え上がったが、空間には何の変化も現れない。

視界が明滅し、膝から崩れ落ちた。冷え切った大理石の床に這いつくばる。頭上では、ちゆりが必死の防戦を続けていた。意識は辛うじて保っているものの、指一本動かすことすらできない。肩の火傷が再び酷く痛み出し、全身の感覚を奪っていく。

(もう、どうでもいいわ……)

暗く冷たい石の床の上で、ただ静かに死を待つ方が、どれほど楽だろうか。

「ちくしょー! うぜぇのよ! クソ召喚士!」

突如、鼓膜を裂くような金切り声が響き渡った。

頭上を、生暖かい風と不快な湿気が通り過ぎる。鈍い羽ばたきの音。エリスだ。

しかし、その姿は到底、優雅な悪魔とは呼べない代物だった。髪は乱れ、衣服は引き裂かれ、黒いインナーが露わになっている。全身から滴る水滴が、ひんやりとした地下の空気に生々しい熱気を立ち上らせていた。

エリスは目にも留まらぬ速度で闇の中を飛び回り、黒いコウモリの群れに姿を変えては、容赦のない攻撃を敵に叩き込んだ。方向感覚を失い、床に叩きつけられた敵の隙を突き、ちゆりがブラスターの最大出力を叩き込む。

耳をつんざく爆発音。熱風に吹き飛ばされ、エリスとちゆりが私の傍らに転がってきた。

焦げ臭い煙が晴れた後には、引き裂かれたメイド服の残骸だけが、虚しく散乱していた。

ちゆりの腕を借りて、ふらつく足で立ち上がる。破れたドレスから覗く肩の火傷は目を覆うような惨状だったが、不思議と痛みは遠のいていた。極限状態がもたらした麻痺だろうか。

「ちくしょー! だから召喚士なんて大っ嫌いなのよ! なんでこんな時に呼び出すわけ!? このクソ魔女!」

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喚き散らすエリスを見つめる。衣服はボロボロで全身ずぶ濡れだが、その瞳には疲労感など微塵もなく、純粋な闘争の興奮と勝利の余韻が野蛮に輝いていた。熱を帯びた呼気が白く濁る。

(……一体、向こうで何をしていたのよ)

疑問を顔に浮かべるメデアに対し、エリスは荒い息を整えながら、ニヤリと笑った。

「ついさっきまでさ、あるすご腕の魔術師と一緒だったのよ。まあ、すご腕ってのは、あの男が自分で言ってただけなんだけどね。実際は口だけ番長だったみたい……」

ちゆりが眉をひそめて怪訝な顔をするのをよそに、エリスは上機嫌で続ける。

「……まあ、いいこともあるんだけどね。召喚って、意外と気持ちいいじゃない! それに……ここだけの話、あの男じゃ全然ダメだったことが、戦闘中にできちゃったのよ!」

紫色の禍々しい翼をバサリと広げ、彼女は心底満足そうに喉を鳴らした。

「メデア、あんた一体どんな奴と付き合ってんだよ……?」

ちゆりが心底呆れたように呟く。

「はぁ? なんだって? ちゆりん、そんなにビビらないでよ〜。こんなかわいい科学者さんなのに、もったいないわね! フフッ!」

エリスはちゆりの肩に腕を回し、顔を覗き込んだ。

「まさか、あんたはまだ……お母さんに縛られてるわけ? それとも、あの教授? だったら、アタシが特別に色々教えてあげようか? 科学的なアプローチでね。どう?」

真っ赤になってメデアに助けを求めるちゆりを見て、小さく息を吐き出す。

「助けてくれて……ありがとう、エリス」

擦れた声で礼を言い、表情を引き締める。

「ここでとんでもないことが起きているわ。誰かが幻想郷と戦争を始めようとしている。神綺の娘のアリスは……おそらく偽物よ。極めて危険な存在だわ。さっき、別のメイドが殺されているのを、この目で見たの」

「ハ! 偽物の娘を、さらに偽物と入れ替えるってわけ? おもしろいわね!」

「そういえば、あなたも私をアリスに成り代わらせて、この宮殿に侵入させるつもりだったわよね?」

痛む肩を庇いながら問い詰めると、エリスは悪びれる様子もなく肩をすくめた。

「まあね。全部の案がオリジナルじゃなくてもいいじゃない……」

言い訳も早々に、エリスは視線を周囲の暗がりへと巡らせる。瓦礫の山から小さな磁器の花瓶を見つけ出すと、素早い手つきで懐へ滑り込ませた。だが次の瞬間、彼女の野性的な勘が何かを捉え、視線が入り口の暗がりへと鋭く固定される。

「誰か来るわよ」

冷え切っていた地下室の空気が、突如として別の重圧に支配された。

階段の奥から現れたのは、三つの影。

先頭を歩くのは、銀色の髪を揺らす創造主、神綺。その後ろを、アリスがぴょんぴょんと跳ねるように続いている。そして最後尾には、張り詰めた糸のような威圧感を放つメイド長、夢子が控えていた。

「ママ、見て! アリス、全部思い出したの!」

無邪気さを装った幼い声が、冷たい石壁に響き渡る。

「このお姉さん、悪い人なのよ!」

夢子の冷徹な視線が、メデアとちゆり、そしてずぶ濡れのエリスを順に射抜いた。

「一体ここで何をしているのですか!?」

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その一言で、場の空気が完全に凍りついた。圧倒的な力を持つ神とその側近、そして正体不明の悪意を隠し持つ少女。逃げ場のない閉鎖空間に、息が詰まるような切迫感が充満する。

アリスは神綺の深紅のドレスに顔を埋め、大粒の涙をこぼしながら泣き叫んだ。

「この人たちがママを殺そうとしたの! メイドに変装して、メイドたちを殺して……アリスを一人ぼっちにしようとしたのよ……!」

震える小さな手でメデアの顔を指差し、神綺を見上げて訴える。

「この黒髪のお姉さん、見て! この人、幻想郷の人間だもん。人間の里の魔女なのよ。アリスが昔、幻想郷に住んでた頃、この人も同じ学校にいて、クラスメイトにいじめられたの。便器に頭を突っ込まれたり……。アリス、全部見てたんだからね! ねぇ、ママ、この人の目を見て! 意地悪そうでしょう? きっと、世界中に恨みを持っていて、みんなに復讐しようとしてるんだわ」

(……何をでたらめな)

「ママ……。あの時、アリスをいじめてたグループに、この人もいたの……。アリスは気に入られなかったんだもん……。だって、アリスはママの血を引いてるから、みんなと違って優しい子なのに……。それで……、この人が里の男の子たちを集めて……、アリスに酷いことするよう……命令したのよ……」

再び泣き崩れる少女の頭を、神綺は痛ましげに撫でる。

ちゆりはあまりの急展開に言葉を失い、エリスは盗んだ花瓶の隠し場所を探してそわそわしていた。

「……それで、今度はこの人がパンデモニウムに来たのよ! 復讐のために、私たちの家を乗っ取ろうとしてるんだわ! ママの力を利用して、力の源を手に入れるつもりなのよ! キクリおばさんの話なんて、全部嘘! ママ……、この人を処刑して……!」

神綺の視線が、すがりつく娘とメデアとの間を彷徨う。その背中は微かに震え、神としての威厳は、娘を想う盲目的な母性の前に揺らいでいた。