第70章 ふわふわエレンの魔法店

(カナ……。あいつには散々振り回されたけれど、どうしても気になる。まさか、まだあのアメジストの影響が残っている……? いや、ただの被害妄想だわ。危険な考えだけれど……カナのずる賢さは利用できるかもしれない。それに、私は楽な道を選ぶ人間じゃない。よし、最初の目的地はエレンの店ね。名前だけは何度も聞いてきたし、そろそろ顔を出してもいい頃合いよ。)

(それにしても、この被害妄想は悪化している気がする。夢幻館の外に出るだけで、ずっとカナに監視されているような……。まあ、被害妄想があるからって、本当に狙われていないとは限らないわね。)

「くるみ、誘ってくれて嬉しいんだけど、今回は一人で行かなきゃいけない用事があるの。ごめん、また今度ね」

「ほら……あんたたち人間っていつもそうじゃん。柔らかくて、いい匂いがするくせに、一緒に散歩しようとすると……『吸血鬼とは無理だ……』なんて言うんだから」

唇を尖らせる気配に、そっと肩へ手を置く。

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石造りの冷え切った空気の中を漂ってくるのは、散歩を断られてへそを曲げた子供のような、不満げな鼻息だった。言葉による文句を通り越したその無言の圧力は、これまでの命のやり取りとは無縁の、あまりにも平和な日常の温度を帯びている。

「そんなお決まりのセリフが、私に効くと思っているの? バカなこと言わないでちょうだい。それより、確か数日前、人間と親密になれる絶好のチャンスを逃したんじゃない? 覚えてないの?」

「太郎のこと? あの時は……うーん……」

「つまり、本当は噛みたかったのね? だったら今回の教訓を活かして、次のチャンスは逃さないようにすることね」

ほんのりと肌の温度が上がる気配とともに、いつもの甘い胡桃の香りがふわりと漂ってきた。

「もう、マジで意地悪なんだから! あんたって、残酷な魔女め!」

わざとらしく顔を背ける。

「ええ、そうよ。でも、くるみだって血に飢えた化け物でしょ? どっちもどっちじゃない?」

微笑みかけると、わずかに強張っていた空気が緩んだ。

「これからエレンの店に行く予定なんだけれど、場所はわかる?」

「うん、あそこなら誰だって知ってるっしょ。夢幻館を出て、血の池を渡って、東の山を越えたら、南北に分かれる道があるから、北の端まで行けばいいわよ。飛べるようになった?」

「ええ。教えてくれてありがとう」

軽く会釈して歩き出そうとすると、背後から声が追いかけてきた。

「ちょっと待って! あの……もしさぁ……誰か……太郎みたいな人がいたらさぁ……連れてきて?」

「そんなに飢えているの?」

返事はなく、ただ指先を噛む小さな音だけが聞こえた。エリーに門を開けてもらい、外に出る。

午前十時過ぎ。夏の終わりの湿った空気は、花の蜜を煮詰めたシロップのように甘く重く、肌にまとわりつく。完璧に手入れされた庭園のどこかに、この芳香の源があるのだろう。しばしその香りに酔いしれた後、名残惜しさを覚えながらリュックサックから卵を取り出した。淡く輝く青い表面を掌で転がし意識を集中させると、小さな翼を持つジェット箒へと姿を変える。

空へ飛び立っても生暖かい空気は変わらず、まるでスープの底を泳いでいるかのようだった。厚い雲が空を覆い隠し、湖面は鏡のように静まり返っている。数匹の翼を持つ一つ目の小動物が、好奇心と警戒心を入り混ぜて後をついてきた。杖の先から微弱な魔力を放って牽制しつつ、高度を上げる。推進力が鏡のような水面に波紋を広げると、深淵で巨大な影が揺らめいた。先日オレンジがナマズと呼んでいた、あの湖の主だろう。今日も静かに底を這っているに違いない。

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菊界で手に入れた真新しい生地が、上空の張り詰めた冷気を孕んでパタパタと心地よい音を立てる。正面から強烈な朝陽の暖かさを浴びると、エンジンの駆動音すら遠のき、ただ風を切る音だけが鼓膜を支配した。眼下に広がる雄大なカルストの岩肌と、谷底に滞留する深い霧海。これから向かう森の奥深さを暗示するような、途方もないスケール感が全身を包み込む。

対岸に広がる鬱蒼とした森は、数日前、オレンジと共に巨大な花と戦った場所だ。高度を少し下げて耳を澄ますと、木々のざわめきに混じって、かすかに人の声が聞こえたような気がした。

「どういうこと? 魔女なんて見てへんよ」

(気のせい……? それとも本当に誰かいるの?)

警戒しながら声のした方へ箒を向けるが、再び静寂が降り、人の気配は消え失せた。

(……気のせいだったか。また被害妄想だわ)

少し肩透かしを食らいつつ、気を引き締めて先を急ぐ。

やがて、草木一本生えない荒涼とした山々が見えてきた。オレンジがどうなったのかは分からないが、今回は立ち寄らずに越える。ルイズと出会ったあのベンチを上空から確認し、さらに北へ。落葉樹林は徐々に針葉樹林へと変わり、高い松が空を覆い尽くしていく。深い緑の絨毯が広がり、爽やかな松葉の香りが肺を満たした。

ゆるやかな上り坂の小道を辿り、本当にこの道で合っているのかと不安がよぎった時、ついに目的の気配を感じ取った。

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深い森の奥、唐突に視界が開けた先に、目当ての魔法店は建っていた。周囲の自然から完全に浮き上がった極彩色でありながら、土の匂いのする実用的な菜園や、風雨に晒されて剥げかけた塗装が、この家には確かに「生活」があることを雄弁に物語っている。物理法則すら少し緩んでいるような独特の空気に、長い飛行を終えた安堵の吐息が自然と漏れた。

入り口近くで箒の高度を下げ、着陸してノックしようとした瞬間、勢いよくドアが開け放たれた。

「やっほー! いらっしゃいませー! あなた、だあれー?」

姿を現したのは、小柄な少女だった。箒から降りて、彼女の前に立つ。

「おはようございます。魔女のメデアと申します。あのう……」

「……ハッ!」

少女は目を丸くし、まるで未知の生物でも発見したかのように固まった。

「あの……ここは『ふわふわエレンの魔法店』で合っていますか?」

「ソクラテース! お客さん来たわよ! いらっしゃーい!」

振り返りもせず家の中へ駆け込み、勢いよくドアが閉まる。芝生に寝そべったままの太ったベージュ色の猫が、片目を開けて鋭い視線を向けてきた。次の瞬間、再びドアが開き、大きなトレーを持った少女が立っていた。

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顔のすぐ前に突き出された木製トレーからは、バターと砂糖が焦げた暴力的なまでに甘い匂いが立ち昇っている。地獄や魔界の血生臭さとは無縁の、圧倒的な「陽」の気配。満面の笑みで歓待してくる少女の背後では、先ほどの猫が置物のように静止したままこちらを見据えており、その奇妙な対比に思わず眩暈を覚えそうになる。

「あ……えっと、ありがとうございます。エレンさんはいらっしゃいますか?」

「ううん! ここに『エレンさん』なんていないわ! エレンよ、ただのエレン!」

(……呼び捨てがいい、ってことかしら)

「クッキー、食べてみて! ほらほらっ! さあ、中へどうぞ!」

ぐいっとトレーを押し付けられながら、店内へと促される。

(先にどっちを優先すべきか? クッキーを取るか、店の中に入るか……)

そう、これは重要なプロットの選択よ、メデア!

とりあえず勧められるままに市松模様のクッキーを一つ手に取り、口に放り込む。

(美味しい!)

店内は、まるで絵本から切り取ったような空間だった。古い木材の埃っぽい匂いと、あふれんばかりのパステルカラー。使い込まれた家具が発する温もりと、アンバー系の柔らかな光が混ざり合い、

「ふわふわ、すやすや……」

という幻聴すら聞こえてきそうだ。あまりにも無邪気なその空気に、軽いめまいを覚えた。

(私もエレンと同じ魔女のはずなのに……どうしてこんなに違う世界に住んでいるんだろう……?)

「紅茶、入れるね! ちょっと待っててー!」

エレンがカウンターの後ろに引っ込んでいる間、壁際の棚に目をやる。色とりどりの小瓶や魔除けが所狭しと並んでおり、興味の赴くままに手に取っては戻した。

【ふわふわエレンの魔法店 可愛らしい商品たち】

・惚れ薬 ❤ 700文

服用後30分で最初に出会った人に恋をする魔法のお薬。効果は2日間持続します!

(でも、真実の愛には効果ないんだって! 残念!)

・惚れ薬(濃厚) ❤❤❤ 2000文

服用後10分で最初に出会った人に恋をする、効果絶大の惚れ薬! 効果は7日間持続します!

(でもね、真実の愛には効果ないんだって。あしからず!)

・嫌い薬 ❥❥ 1000文

惚れ薬の効果や軽い恋心を打ち消してくれる、ちょっぴり切ないお薬。

(でもね、真実の愛には効果ないんだって。愛ってすごい!)

・ラブ♡ビーム機 ❤❤ 2500文

愛の光線を送る、魔法のアイテム! 怒りを鎮め、心の痛みを和らげてくれるよ! 10発限定!

・子供時代の夢飴 ❤❤❤ 3000文

10分間だけ、子供時代に戻れる、夢のような飴!

( 注意:友人の監視下でのみ服用すること。危険!)

・治癒のポーション ❤ 500文

軽い怪我を治してくれる、魔法のポーション!

・解毒剤 ❤ 800文

毒を消してくれる、頼もしい味方!

心理学や錬金術の本が並ぶ一角に、伯爵カリオストロ著『愛の公式』という重厚な装丁の本を見つけた。この可愛らしい空間にはひどく不釣り合いだ。

「どうだ? 気に入ったかニャ?」

低い声に振り返ると、クッションの上に寝そべった先ほどの太った猫が、値踏みするように片目を開けてこちらを見据えていた。

「あなた、喋れるの?」

「幻想郷じゃ、喋れない方が珍しいニャ。大切なのは、喋るより考えることだニャ……」

「あなたもエレンも、ただ者じゃないみたいね」

「俺の名はソクラテス。耳の後ろ、掻いてくれないかニャ? 頼むニャ……」

ただの愛玩動物とは到底思えない、そのひどく尊大な響きに毒気を抜かれ、言われるがままに耳の後ろへ指を這わせる。

「もうすぐ紅茶が来るニャ。ソファに座って、そのまま撫で続けるといいニャ」

喉をゴロゴロと鳴らすソクラテスに従い、ソファに腰を下ろして催眠術にかかったように撫で続けた。

しばらくして、エレンが鮮やかなティーポットとカップ、それに山盛りの飴が乗ったトレーを運んできた。

「待たせちゃってごめんねー! どうぞどうぞ!」

「ありがとう、エレン。こんなに歓迎されたのは久しぶりだわ。でも、この飴……魔法はかかっていないわよね?」

「ごめんね。魔法がかかってるものは、お金を払ってくれないと……私たちだって、生活があるんだから」

ガム味の飴を口に入れると、甘ったるい味が舌の上でとろけた。紅茶も信じられないほど甘く、一緒に流し込むと糖分が脳を直撃するようだ。

「実は、買い物しに来たわけじゃなくて……ちょっと用事があって……」

エレンの顔が一瞬曇ったが、すぐに好奇心に満ちた表情に戻る。

「用事? 気になるー! 教えて、教えて!」

「カナ・アナベラルのこと、知っているわよね?」

「カナのこと? もちろん知ってるよ! カナはあたしの親友なの! まさか、カナが旅してる間に、メデアと仲良くなったの?」

「まあ……そうとも言えるわ。カナに会いたいんだけれど、今いる?」

「うーん……いるけど……ちょっと機嫌が悪くて……。あたしも邪魔したくないから、屋根裏部屋で好きに過ごしてもらってるの……」

慎重に言葉を選ぶ。

「個人的な質問でごめんね。カナは、どうして家を出て、どうして戻ってきたのか、何か言っていた?」

「ううん、何も言ってないよ。カナっていつもそうなの。掴みどころがなくて、ミステリアスで、傷つきやすいんだから! 傷つけないように気を付けてね!」

「わかったわ。傷つけたりしないから、やっぱり会わせてくれない?」

「今すぐ!? うーん……それは良くないと思う……本当に……。まあ……何か買ってくれるなら……」

リュックサックから魔界の通貨を取り出す。

「これ、受け取ってもらえるかしら?」

シンキ硬貨を差し出すと、エレンは目を輝かせた。

「シンキ!? 魔界の!? メデア、すごい! うん、大丈夫! 1シンキで2文でいいよ?」

(四千五十文か……結構な金額ね)

「わかったわ。何か買ったら、カナに会わせてくれるのね?」

「ふふっ、メデアってずる賢い! 考えてみる……でも、自己責任よ? カナが機嫌が悪いと……」

その瞬間、弾むような子供っぽい声が、深海のように低く落ち着いた響きへと急変した。まるで、中身だけが別の生き物に入れ替わったかのように。

「……大変なことになるわよ。」