第71章 屋根裏の少女

これまで潜り抜けてきた血生臭い神殿や冷たい研究所とは無縁の、あまりにも平和な空間だった。焦げたバターと砂糖の暴力的なまでの甘い匂いが、鼻腔の奥まで甘やかしてくる。使い込まれた家具が放つ微かな木の香りと、膝の上で喉を鳴らすソクラテスの体温に当てられ、顔に貼り付けた皮肉屋の仮面がどろりと溶け落ちそうになるのを感じた。

(これはいけない。冷徹な野心こそが、私をここまで生かし続けてきた唯一の鎧なのだ。)

緩みかけた口元を引き締め、もう一口、甘すぎる紅茶を喉に流し込む。

二杯目の紅茶が注がれ、テーブルには際限なく色とりどりの菓子が積まれていく。過剰なまでの歓待を受けながら、これまでの狂気じみた道程をエレンに語って聞かせた。相槌を打つ彼女の視線には、純度百パーセントの善意と哀れみが滲んでいる。

(……なんて無邪気な思いやり。私の腐った本性など露知らずに)。

「静かなる神殿で、彼女はコンガラに密かに想いを寄せていると打ち明けてきたわ。……でも、実際は地獄の軍勢を操って幻想郷を火の海にしようと企んでいたのよ。私と小兎姫は危うく罠に嵌められそうになったけれど、とっさに彼女を挑発して正体を暴かせたおかげで、なんとか命拾いしたの 」

エレンはただ黙って、眉根を寄せて聞き入っている。

「その後、魔界に渡ったのだけれど、そこでも彼女は同じような真似をしていたわ。アリスという少女に化けて、創造主である神綺の懐に入り込んでいたの。裏では月の姉妹と結託して、またしても幻想郷への侵攻を企てていた……。月の姉妹のこと、何か知っているかしら? 」

「ええ。あなたが思っている以上にね。でも、あの二人はここには来られないから、安心して! それで、その後はどうなったの? 」

キクリが覚醒した顛末と、その後も執拗につきまといながら、嘘と真実を混ぜ合わせたような歪なヒントを与え続けてきた事実を語る。そして最後に、メデアからすべてを奪い去ったあの忌まわしい判決書をテーブルに滑らせた。

「わぁ! メデアちゃん、ラッキーだったね! 」

深刻な話を聞き終えたエレンは、なぜかパッと表情を輝かせた。

「……ラッキー? 皮肉のつもりかしら 」

「ううん、本気! だって、カナはメデアちゃんにすっごく関心を持ってるってことだもん! 実はね、カナにはどんな惚れ薬も効かないの。愛の魔法には全く影響されないと思ってたんだけど…… 」

「彼女を実験台にしたの? 」

「しーっ! 実験台じゃなくて、ちょっと確認しただけ! もちろん、本人にも同意してもらったよ! 」

(……恐ろしい魔女だわ)

「ところで、エレン。神綺とキクリ以外にも、創造主は存在するのかしら? この幻想郷にもいるはずよね 」

エレンは小首を傾げると、小走りで棚へ向かい、分厚い古書をテーブルにドスンと置いた。指先でパラパラとページをめくり、やがてパッと顔を上げる。

「あった! 見つけたよ! 『龍神りゅうじん』って呼ばれる存在が天界を支配してて、幻想郷も作ったんだって! 博麗大結界を作る力も、龍神が授けたみたい。メデアちゃん、次は龍神のところに遊びに行かなきゃね! 」

「ありがとう。じゃあ……あの『ラブビーム』を一つもらえるかしら? 」

「ラブ♡ビーム機のことだね! 」

エレンは弾むような足取りでカウンターに戻り、花とハートの装飾が施された六角形のプリズムを持ってきた。紙とも木ともつかない不思議な手触りで、恐ろしく軽い。

「こうやって立って……こうやって振るの! 」

エレンがプリズムを突き出し、勢いよく振る。黄色の光線が放たれ、メデアの膝で丸くなっていたソクラテスの眉間を直撃した。

『ニャ……』

ソクラテスはひどく迷惑そうに低く喉を鳴らすと、寝返りを打って再び目を閉じた。

(……とばっちりね)

「10発全部あげる! 一発じゃ足りない時は、相手が大人しくなるまで撃ち続けてね! でも、カナちゃんには絶対に使っちゃダメだよ! 」

「どうして? 」

「殺されるから 」

その一瞬だけ、エレンの声から一切の感情が消え失せた。背筋に冷たいものが走る。

メデアは黙ってシンキ硬貨をテーブルに置き、四杯目の紅茶を胃に流し込んだ。

「エレン。彼女に会いたいのだけれど、殺されないためのアドバイスはあるかしら? 」

「嘘をつかないこと。絶対にね 」

再び無邪気な笑顔に戻ったエレンが、歌うように言う。

「カナは嘘を見抜くのがどんどん上手くなってるの。それに、今、他の人間に変身できるようになったんでしょ? カナはね……主要チャクラを覚醒させたみたい 」

肺の奥まで息を吸い込み、黄色い布が巻かれた手すりに手をかける。軋む木の階段を一段上るごとに、先ほどまでの温かな空気が足元から冷えていくのを感じた。階下を振り返ると、エレンが不安げに見上げている。彼女の肩に飛び乗ったソクラテスの金色の双眸が、

『やめておけニャ』

と冷ややかに忠告しているように見えた。

扉を押し開けた途端、むせ返るような埃の匂いと、肌を刺すような冷気が全身を包み込んだ。下階の甘ったるい陽の気配など、ここには微塵も届いていない。床には割れた陶器の破片や木のおもちゃの残骸が散乱し、部屋の隅には火の落ちたランプと、使いかけの糸車が放置されている。壁際にはトルソーが並び、豪奢なフリルをあしらったドレスが何着も掛けられていたが、どれも死装束のように生気を失って見えた。肝心の彼女の気配はない。

淀んだ空気を吸い込みながら、曇った窓辺へと歩み寄る。いつの間にか降り出した細かい雨が、ガラスを単調なリズムで叩いていた。見えない何者かの視線が背筋を這い上がってくるような、不快な悪寒。ふと視線を落とすと、窓台に砕けた鏡が置かれている。無数にひび割れた表面が、メデアの顔を歪に切り刻んで映し出していた。枠からこぼれ落ちた破片を一つ拾い上げ、元の場所へ嵌め込もうと指を伸ばす。

チリッ、と鋭い痛みが走り、赤黒い滴が鏡面に散った。

「割れた鏡に触ると危ないって、誰も教えてくれなかったの? 」

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背後から鼓膜を打ったのは、深海のように低く、一切の感情が抜け落ちた冷徹な声だった。弾かれたように振り返る。屋根裏の小さな小窓から差し込む一筋の光――その僅かな光源の中で無数の塵が白く舞う淀んだ空気の中に、彼女は立っていた。階下での暖かな温度を急激に奪い去るような、張り詰めた静寂。血の通っていない人形のような無機質な肌と、前髪の奥からこちらを射抜く鋭い眼光だけが、暗がりの中で異様な存在感を放っている。

「お礼を言いに来たのよ、カナ 」

「黙って 」

間髪入れずに叩きつけられた声は、氷のように冷たい。

「どうせ、私を味方に引き入れに来たんでしょ? あんたの、あのクソみたいな世界を救うためにね。自分一人じゃどうにもならないって、ようやく気づいたわけ? 」

「ええ。あなたの助けが必要なの。王冠のヒントも、助かったわ 」

「ふん。でも、私の言うことなんて全然聞いてくれなかったじゃない。あの聖騎士ぶったバカ女を過去に送って、自分の左腕と時間を無駄に消費しただけでしょ 」

「……謝るわ。でも、あれだけの騙し合いの後では、あなたを無条件に信じるのは難しかったの。わかってくれるかしら 」

彼女はメデアの言葉を無視して窓辺へ歩み寄り、ガラスを伝い落ちる水滴を虚無的な瞳で見つめた。

「……綺麗でしょ? 小さな雨粒が一生懸命、下へ下へと落ちていくの。他の雨粒と合わさったら、もう誰にも止められない大きな流れになってしまうわ。ねえ、私たち、似てると思わない? あんたは弱いだけじゃなくて、本当に取るに足らない存在よ。自分の人生を、わざわざ自分の手で壊したんだから。でもね、私は最初から、何一つ持っていなかったのよ 」

「……私が弱いって、どういう意味かしら 」

「あんたは恵まれてたのよ。故郷で仕事を見つけて、結婚して、平凡で退屈な人生を送れたはずなのに。それなのに、世界の不完全さを呪って、悪魔と手を組んでまで世界をひっくり返そうとした。……よくもまあ、見事に変えてくれたわね! これで満足? 本当は、不完全なのは世界じゃなくて、あんた自身なんじゃないの? どこにも馴染めず、自分の居場所すら見つけられなかった、哀れで滑稽な存在……。ちくしょう、人間には簡単なはずなのに! 」

吐き捨てるような語尾に、隠しきれない苛立ちと羨望が混じった。

「……そうね。あなたの言う通りかもしれないわ。こんな世界、窮屈で息が詰まるもの。だから私は、自分の好きなように書き換えたいだけよ。でも、あなたはどうしてそんなに飢えているの? 何がそんなに不満なのかしら 」

カナは音もなく距離を詰め、メデアの瞳の奥を覗き込むように睨みつけた。

「聞かないで。私もまだ、答えを探してる途中だから。ただ、一つだけわかったことがあるわ。この退屈な世界は、私には合わない。だから、私は私のルールで生きていく。それだけよ 」

「……ええ。私たち、本当にそっくりね 」

カナは小さく息を吐き、静かにメデアの名を呼んだ。

「メデア 」

「何かしら 」

「私と一緒に、遊ばない? あんたなら、まだ少しは救いようがあるかもしれないからね。ただ、一つだけ条件があるの 」

彼女は窓ガラスに冷たい指先を押し当て、流れ落ちる水滴を堰き止めた。

「このゲームは、私たちだけの秘密よ。鬱陶しい仲間なんか連れてこないでね。あんたが私の好みに合えば……龍神を操る方法だって、教えてあげてもいいわ。どうせ、あいつのところへ行こうとしていたんでしょ? 」

「ええ。どうしても龍神の署名が必要なの。何か名案でもあるの? 」

カナの薄い唇が、小狐のように狡猾な弧を描いた。

「あるに決まってるじゃない! 署名だけじゃなくて、あいつの全てを奪い取ってやりましょうよ。あの傲慢な龍神を地に跪かせて、私たちに従わせる……最高の気分だと思わない? 」

「悪くないわね。でも、もし従わなかったらどうするの? 殺すつもり? 」

「……私の邪魔をするならね 」