第72章 ふたりだけのゲーム

「わかったわ。そのゲーム、二人でしましょう」

差し出されたカナの手を握り返す。ポルターガイストの肌はひどく冷たかったが、触れ合った掌の奥底で、奇妙な熱がじわじわと脈打ち始めていた。

肌を刺すような冷気と、絶え間なく打ち付ける雨の音だけが支配する世界。階下の甘ったるい陽気から完全に隔絶されたその冷涼な空間には、もはや二人だけの、和解と共犯という名の息が詰まるほどの緊密な空気が満ちていた。底知れない琥珀色の瞳の奥に、同じ色をした自分自身の姿が歪んで映り込んでいる。

(これもただの偶然かしら……)

唇の端に微かな笑みを浮かべるカナの表情には、狂気ではなく、酷く静かで捉えどころのない虚無が張り付いていた。

曇ったガラスの向こう、濃霧に沈む針葉樹の海に視線を投げやりながら、カナがぽつりと呟いた。

「今日は絶好の飛行日和ね。空一面の雲も、肌を刺すこの風も、最高だわ」

数時間前までまとわりついていた夏の湿気は完全に消え失せ、窓の外では容赦のない霧雨が吹き荒れている。

「ねえ、散歩しない?」

誘うような声とともに、彼女は大きく窓を開け放ち、吹き込む突風に髪を無造作に委ねた。

「ええ、行きましょう」

二人は躊躇いもなく、雨空へと身を躍らせた。小さな翼のついたジェット箒にまたがり、並んで虚空を踏みしめるカナの隣を進む。雨粒が容赦なく打ち付けるが、キクリから与えられた衣服は冷たい風を完璧に遮断してくれた。手を伸ばせば森の梢に触れられそうなほどの低空を、這うように飛ぶ。

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地平の彼方を睨みつけながら、カナが勝ち誇ったように言った。

「この世界は、私たちのものよ」

「ええ。最後の砂粒に至るまでね」

同調するように頷き、視線を交わす。カナの瞳に映る自分は、もはや慎み深い没落貴族などではない。かつて心の奥底に押し込めていたはずの、世界を我が物顔で書き換えようとする野心に満ちた女の顔だった。

「カナ」

吹き荒れる風の中で声をかけると、彼女は鬱陶しそうに濡れた髪を払い除けて振り返った。

「何?」

「あなたが龍神を必要とする理由がわかったわ。その力を使って、本当に世界を征服したいのね」

「よくわかったじゃない、お利口さん。彼岸をひっくり返して、閻魔の玉座を灰にしてやるのよ」

「そう。私も乗るわ。元々、この宇宙を自分の好みに作り変えるつもりなのだから、絶対に諦めない」

再び手を繋ぎ合わせ、冷たい雨空からエレンの店の屋根裏へと滑り込む。

「ねえ、メデア。最近ね、自分が何のために生まれてきたのか、わかった気がするの」

滴る水を払うこともせず、カナが不意に口を開いた。

「あの忌まわしい巫女の夢のことかしら」

「それもあるけれど……それだけじゃないわ。宇宙が私を生み出したのよ。愚かな神々や人間たちの過ちを正す、運命に逆らえる誰かを必要としていたから。……メデアも、同じように感じない?」

「どうかしらね。随分と、神様より偉そうな物言いじゃない。仮に私にその気概があったとして、肝心の力はどうするつもり?」

「二人で力を合わせればいいのよ。確かに私はちっぽけでか弱いポルターガイストだけれど、その分しぶといわ。屈辱と孤独の中で生きてきたからね……。ところで、メデアはどんな風に育ってきたの?」

「……私の心、読めなかったの?」

カナは鼻で笑った。

「何言ってるの。そんなことできるわけないじゃない。私たちはヴィシュッダ・チャクラの使い手なのよ。コミュニケーションの道。エスパーじゃないんだから、情報は全部自分で集めるの。確かに嘘は感じ取れるようになったけれど、真実を無理やり引きずり出すことはできないわ。メデアの判決文を見ると、アルゲアス家最後の生き残りみたいね。両親はいないってこと? 私の話はしてあげたんだから、今度はあなたの番よ。教えて」

「……五歳の時、両親が謎の事故で行方不明になってね。それからは、祖母が育ててくれたの。魔法の基礎も、彼女が叩き込んでくれたわ」

***

「あら、仲直りしたんだね! よかった!」

階下に降りると、焦げた砂糖の匂いと共に、エレンが弾んだ声で焼き立てのクッキーと紅茶を勧めてきた。相変わらず絵本から抜け出してきたような無邪気さだが、彼女の肩に陣取るソクラテスの双眸は、値踏みするようにこちらを睨みつけている。

(……相変わらず、可愛げのない猫ね)

「仲直りって、別に喧嘩してたわけじゃないわ。単なる誤解。もう話し合ったから大丈夫よ」

カナは手慣れた様子で愛想笑いを浮かべてみせた。

「ありがとう、エレン」

勧められたティーカップを手に取り、甘すぎる紅茶で冷えた胃の腑を温める。

その間も、カナは本棚の前に陣取り、分厚い古書を次々と引き抜いては床に積み上げていた。呆れるほどの乱読ぶりで目ぼしい数冊を拾い上げると、さっさと屋根裏へと引き返していく。

「その本、全部必要なの?」

後を追いながら呆れ声で尋ねる。

「龍神について何も知らないんだから、計画を練るための材料よ」

「『名案がある』って、豪語していなかったかしら」

「ただの思いつきよ。具体的な戦略はこれから。エレンの本には、龍神が天界の創造主だって書いてあったけれど、他に何か情報は持ってる?」

手元にあった『求聞史紀』という小さなガイドブックを放り投げる。幻想郷の生態系を記した代物だ。目次から該当のページを開き、カナに押し付けた。

『【龍神】

主な危険度:極高

遭遇頻度:極低

多様性:不明

主な遭遇場所:不明

主な遭遇時間:不明

特徴:幻想郷の最高神。人間、妖怪共に、生きとし生ける物全てが崇拝する神である。普段は、海か天か雨の中に棲み、その姿を確認する事は殆ど無い。(中略)万が一逆鱗に触れてしまった場合、幻想郷はどうなるのか判らない。姿を現わす事は殆ど無いが、幻想郷の一大事の時だけ現れ、空を覆うという。普段は、通った跡である虹や河を見る事で存在を確認出来る。』

「……使えないわね」

カナは苛立たしげに唇を噛んだ。

「こっちも見てちょうだい」

『【永江 衣玖】

種族:妖怪

職業:竜宮の使い

能力:空気を読む程度

年齢:不明

居住地:天界』

「全然足りないじゃない! 情報が少なすぎるわ!」

苛立ちを隠そうともせず、カナが声を荒らげた。

「はあ、しょうがないわね。とりあえず、この小魚から当たってみるしかなさそうよ」

頷き返し、別の本から天人に関する記述を拾い読みする。悟りを開いたという退屈な連中の情報だ。いずれにせよ、龍神を捕獲する具体的な算段は、現地で組み上げるしかなさそうだ。

「一番大事なのは、あのデカブツの弱点を暴くことね。死んだ家族とか、叶わぬ恋とか……そういうのが理想的だわ。手がかりを見つけたら、私たちが誰かに化けて、あいつを思い通りに操ってやるのよ」

悪びれもせず言い放つカナの顔を見て、思わず笑いが込み上げる。薄暗い屋根裏部屋に、窓の外の嵐さえ掻き消すような共犯者たちの笑い声が響いた。

「ねえ、メデア。いい案があるわ。人間の里には龍神を祀った石像があるでしょう? あれを壊してみるの、どう?」

「石像を壊して……龍神を閻魔と敵対させるつもり?」

「そうよ。四季映姫か小町に変身して、あの石像を派手にぶっ壊してやるの。それがどう役に立つのかはまだわからないけれど、龍神の逆鱗に触れるには十分なはずよ」

「悪くないわね。でも、もう少し慎重に動かないと。そもそも、天界にはどうやって行くの? 簡単に侵入できる場所じゃないはずよ」

「ルートはいくつかあるわ。まず、ここから直接空へ飛ぶのは自殺行為ね。途中で凍死するわ。だから、シンギョクの門を通るしかない。洞窟に行ったら、あの老いぼれを騙すか、始末するか……好きにすればいいわ」

「乱暴な真似はしなくていいわ。あの門番は私に借りがあるから、天界へ繋いでくれるはずよ」

「でも、目立たないに越したことはないわね。私たちが天界へ向かうこと自体、伏せておきたいし。……それに、石像を壊す前に、誰に変身しておくべきかしら。そうね、メデアの繋がりも利用できるかもしれないわ」

「幽香のこと? でも、カナが彼女の顔パスをもらえるかしら。そんなに親しい間柄じゃないでしょう」

「ええ、数回会った程度ね。だから、私が誰かに変身した方が手っ取り早いわ。メデアの友達って設定で。……ああ、変身能力は一日に一回しか使えないから、気をつけてね。さて、誰の顔を借りようかしら……」

帽子の赤いリボンを指先でくるくると弄りながら、カナが計算高く目を細める。メデアも髪をまとめたリボンに無意識に触れながら、次なる盤面の構築へと頭を巡らせ始めた。