森の中には、肌に纏わりつくような湿気が淀んでいた。変わりやすい天気のせいで、雲の切れ間から時折刺すような陽光が木漏れ日となって降り注ぐ。その中で、騒霊の少女――カナは、甲高く幻想的な声を響かせていた。だが、彼女の口から紡がれる言葉は、視界に映る木々や太陽、この世界のありとあらゆるものを、全く異なる輪郭へと歪めていく。
確かに、この狂った世界を「正したい」とは願っていた。だが、カナのように明確で狂気じみたビジョンを持っていたわけではない。せいぜい、各国の政府を解体し、メデアの統治下で地球全体を一つの合理的な体制に作り変えるといった、手直しの範疇に過ぎなかったのだ。世界の覇権を握った後に何を成すべきか、その先は漠然としていた。しかし、カナの提示した「死そのものの打倒」という果てしない野望は、思考の根底を揺さぶるには十分だった。
「わかったわ、カナ。一緒に戦いましょう。死のない世界……見てみたいものね」
カナはわずかに口角を緩め、張り詰めていた空気を吐き出すように囁いた。
「よかった。閻魔のことは最後まで黙っておくつもりだったの。でも、ちゆりの死で動揺しているメデアを見ていたら、言わずにはいられなかった。あまりにも突拍子もない話だから、信じてもらえずに見限られるんじゃないかって……少しだけ、不安だったのよ」
「……私が、そんなに必要だったの?」
カナは目をこすり、腹の底から楽しそうにクスクスと笑う。
「だって、私の完璧な計画を二度もぶち壊したのはあなたじゃない。でも、メデアを処刑の寸前まで追い詰めたのも、この私。だから、『取るに足らない弱虫』って評価は今でも変わらないけれど、私だって似たようなものよ。お互いの欠陥を補い合えば、怖いものなんてないわ」
「そうね。……でも、この世界には規格外の化け物がうじゃうじゃいる。しかも、いつも都合悪く湧いて出ては、厄介事ばかり持ち込んでくるのよ。あの月の姉妹だってそう。……そういえば、あの二人とどういう関係だったのか、詳しく聞かせてくれないかしら?」
カナはなぜか視線を上空へ逸らし、森の奥の虚空を見つめたまま、重苦しい声で語り始めた。
「あのイカれた鬼女警官、小兎姫とあなたにコンガラの牢獄へ放り込まれた後、もう全部終わりにしようと思って、自殺の準備をしていたの。そうしたら、唐突に空間が裂けて、あの姉妹が現れた。命を拾われたのは事実だけど、代わりに二人の手駒として扱われることになったってわけ。
まずは、奴らが構築した『夢幻世界』って場所で、徹底的に作り変えられた。ヴィシュッダ・チャクラを無理やりこじ開けられたせいで、今でも喉の奥が焼けるように痛むのよ。あいつら、指導は鬼畜そのものだけど、他人を盤上の駒として動かすことにかけては天才的ね。おかげでたった一日で、どんな姿にも化けられるようになったし、誰の目も欺けるようになった。舌がもつれることも、視線が泳ぐこともない。……で、その恩返しとして、魔界の軍勢を二人に差し出す任務を引き受けたの。幻想郷を根こそぎ乗っ取るつもりだったみたいだけど、末端の私に詳細なんて教えるわけないわ。神綺を操る手口は、私が考えたのよ。アリスの生態を調べ上げて、一度だけ接触して……そのあとの顛末は、あなたの見た通り」
「ところで、あの姉妹って、気味が悪いほど本質が違うのよ。姉の幻月は黄色いチャクラの使い手。とにかく闘争と流血が大好きで、残酷そのもの。おまけに、一日に一回、どこからでも軍隊を喚び出せるっていう規格外のバケモノよ。『太陽の炎』とかいう神聖な力らしいわ。
でも、本当にゾッとしたのは妹の夢月の方。私より性根の腐った策士がいるなんて、思いもしなかった。私は直感で動くタチだけど、あいつは生まれついての盤面操作の天才よ。紫のチャクラを開いていて、一日に一回、近い過去か未来を覗き見ることができるの。……ちゆりの居場所が特定されたのも、十中八九、夢月の仕業ね。だから、明日までは私たちがここにいることもバレないはず。まだ、息を潜めるだけの時間はあるわ。
魔界で負けた時、もう少しで姉妹に消されるところだった。それで、慌ててあんたたちの宇宙船に紛れ込んで、地獄まで逃げてきたってわけ」
カナの話を反芻し、メデアは次の手を打ち明けた。風見幽香の監視をすり抜けるため、カナにちゆりの姿へ変身してもらうのだ。冷たくなったちゆりの顔がよぎり胸が痛むが、感傷で立ち止まっている暇はない。ここから始まるのは、あの異常な姉妹との知略戦だ。それぞれが一日に一回だけ使える
「奥の手」。姉妹の最終目的が何であれ、メデアたちの邪魔になることだけは明白だった。
目を閉じ、意識を集中して死神の偽装を解く。元の姿に戻ると、夏の湿った生ぬるい空気が容赦なく肌にまとわりつき、喉の渇きを訴えかけてきた。リュックから水筒を取り出し、生ぬるい水を流し込む。カナに水筒を渡した直後、背後の茂みからガサガサという不審な音が鳴った。
とっさに身構える。周囲を探るが、音の正体は掴めない。二人とも異常なまでの被害妄想に苛まれ、息を潜めるように小声で話していたというのに。背中に張り付くような冷たい視線の気配が、どうにも拭えなかった。
急いで荷物をまとめ、ジェット箒で血の池の上空へ飛び立つ。案の定、水面から一つ目の小悪魔たちが群がり、生意気にも包囲網を敷いてきた。だが、カナの放つ弾幕がメデアと同じ水色であるのを見て、僅かに安堵する。彼女の容赦ない攻撃の雨が小悪魔たちを蹴散らし、難なく対岸へと辿り着いた。
どこからか、むせ返るようなヒマワリの濃密な香りが漂ってくる。乾いた土を踏みしめると、カナは滑らかに姿を変えた。
服装の皺、髪の跳ね具合、声の高さ、そしてあの生意気な態度まで。すべてが完璧な、ちゆりそのものだった。
「よっ、メデア! 準備OKだ! 行くぞー!」
快活な声が響く。本物の姿と重なり一瞬息が詰まったが、すぐに感情に蓋をした。
夢幻館の重厚な門を叩くと、軋む音を立てて扉が開いた。現れたのは門番のエリーだ。彼女は片手に赤いリンゴを持ち、ニヤリと口角を上げる。
「恋人を連れてきたのかい? さあ、ボサッとしてないで、さっさと入りな」
エリーはリンゴを齧りながら、こちらにも一つずつ放ってきた。
「初めまして、北白河ちゆりだ! メデアの……」
「興味ないね。メデアの連れなら誰でも通すさ。おしゃべりをする気分じゃないんだ」
正面玄関へ歩き出しながら、カナはエリーの背中に向かって「ばーか!」と吐き捨てた。あまりにも見事な「ちゆり」の再現度に、内心で舌を巻く。
その後を追ってきたエリーが、ふと足を止めた。
「メデア、ちょっと待ち機な。閻魔の連中に興味があっただろ? さっきカラスが落としていった新聞だ、読んでみな。閻魔の奴ら、ついにイカれたみたいだね。龍神に喧嘩を売るなんて……とんだバカの集まりさ」
渡された新聞を広げ、カナと共に文字を追う。一面には、目を疑うほど大仰な活字が躍っていた。
――文々。新聞――
1ページ
【閻魔、ついに発狂!? 龍神に宣戦布告で幻想郷パニック!】
8月31日午後5時、死神の集団が人間の里に乱入し、村人が泣いて縋る龍神の石像を問答無用で協力なスペルカードで爆砕した! 一団のリーダー、小野塚小町は鼻息荒くこう宣言した。
「閻魔大審議会の名において、天界と龍神に宣戦布告する! 龍神を拝む奴は全員違法! 裁判なしで即刻地獄送りだ!」
この前代未聞の暴挙に対し、幻想郷の事変解決者たちが続々と首を突っ込み始めている。
「閻魔の真意を探るため、彼岸へ乗り込むわ」
博麗神社の巫女 博麗霊夢
「龍神が何やらかして閻魔をキレさせたのか、このアタシが暴いてやるぜ!」
魔法使い 霧雨魔理沙
「これは博麗神社が自らの悪事から目を逸らさせるための自作自演に決まっています! 私が真実を暴き出します!」
守矢神社の風祝 東風谷早苗
幻想郷はまたしても大混乱の渦へ! 文々。新聞は命がけで続報をお届けする!
【橙、人食い妖怪にクラスチェンジ!?】
詳細は6ページ
【大地震発生! チルノの仕業か、天子の八つ当たりか?】
本日早朝、夢幻遺跡を激震が襲った! 氷の妖精チルノは「あたいがやった!」と豪語しているが、博麗神社は「どうせあの天人の嫌がらせよ」と比那名居天子を名指しで非難。一方、紅魔館の引きこもり司書パチュリー・ノーレッジは「ただの地殻変動。騒ぐな」と冷ややかに一蹴。詳細は5ページ。
【恐怖! 人間の里にキスマーク吸血鬼が出没!】
就寝中の若い男ばかりを狙う、変態吸血鬼の被害が続出! 被害に遭った3人は、首筋の噛み跡と全身のキスマークと共に激しい倦怠感を訴えている。スカーレット姉妹は取材拒否。紅魔館のメイドは「お嬢様はもっとエレガントです!」と激怒し、本紙記者をナイフで追い払った。詳細は4ページ。
【お知らせ】
警察中央署では、警棒、手錠、格子、切り札
(意味深)
を高価買取中! お問い合わせはお早めに。
【迷子のお知らせ】
紅葉の神・秋静葉が家出中。見かけた方は妹の秋穣子まで。
***
読み終えたカナは、肩を震わせてクスクスと笑い始めた。
「傑作ね! 私たちの三文芝居に、ここまで見事に踊らされてくれるなんて!」
「声が大きいわよ。……見て、霊夢と魔理沙が動き出した。そのうち閻魔が黒幕じゃないって気づくでしょうけど、大人しく見物しているような連中じゃないわ。邪魔されないように、先手を打たないと」
「そうね。特にあの魔法使いが天界に突撃したら、面倒なことになるわ。あいつらの足を引っ張ってやろうかしら?」
「どうやって?」
「霊夢と魔理沙に、素敵な招待状を送るのよ。幽香の使い魔でもそそのかして、ね」
「なんて書くつもり?」
「そうね……『閻魔と龍神の戦争について、重大な極秘情報があります。地霊殿でお待ちしています――古明地さとり』なんてどう? 白玉楼に呼び出すのも捨てがたいわね」
「悪趣味だけど、筆跡でバレるリスクがあるわ。それに、あのさとりがわざわざ手紙なんて出すかしら?」
周囲の気配を探りながら、小声で言葉を交わす。廊下の奥からは、メイド服を纏ったサキュバスたちの嬌声が絶えず響いていた。
(……サキュバスに少しばかりの対価を握らせれば、都合よく手紙を運んでくれるかもしれないわね)
思考を見透かしたように、カナが悪戯っぽく目を細める。
「差出人なんて匿名でいいのよ。『通りすがりの親切な者』とか、『あなたの熱烈なファン』とか。……『沼の蛙』でも十分騙せそうね」
カナは次の盤面を思い描くように、底知れぬ冷たさを孕んだ笑い声を漏らした。