第22章 罪人の糧

(小兎姫を利用するか。こんな場所で手駒は貴重だわ。明羅には悪いけれど、背に腹は代えられない)

乱れた髪を軽く手で整え、静かに襖の部屋へと歩み出る。入り口に並べられた履物の横で長靴を脱ぎ、ゆっくりと二人の前へ進み出た。

「失礼いたします。コンガラ様を探していたのですが……」
戸惑った迷子の顔を、完璧に顔に貼り付けて。

「ああ、そなたか。忘れ置いたわけではない。入るがよい」
コンガラの声は、先ほどの怒気が嘘のように穏やかだった。

小兎姫はこちらに向き直り、微かに口角を上げる。

(どうやら、私とは初対面だと思い込んでいるようね。遺跡での立ち回りも、里香の脱獄も気づかれていない。この猫かぶり、最後まで演じ切らなくては)

申し訳なさそうに視線を伏せ、コンガラを見上げる。
「お話の邪魔をしてしまって、すみません」

「構わん。我々の話はすでに終わっておる」
コンガラは忌々しげに小兎姫を一瞥した。

少しの間を置き、あえて無邪気な感嘆を込めて口を開く。
「それにしても、小兎姫様のような強力な魔法使いが訪ねてこられるなんて、珍しいことですね」

(安いお世辞に聞こえるだろうけれど、嘘は言っていない。自分の利益のために事実を切り売りするのは……少し胸がすくわね)

「失礼ですが、わたくしたち、どこかでお会いしましたかしら?」
小兎姫が怪訝そうに首を傾げる。

(遺跡での戦いのことを仄めかしてみよう。もしあの時、ルイズの姿まで見られていたら厄介だけれど……賭ける価値はある)

「直接お話ししたことはありませんが、幻想郷で小兎姫様の鮮やかな戦いぶりを拝見したんです。魔法の壁に、あの輝く弾幕……まさに素晴らしい魔法使いだと、深く感銘を受けました」

「ええ、当然ですわ。罪深き魂は皆、わたくしを恐れ慄いているんですもの! 幻想郷では、それなりに名が通っておりますのよ」
小兎姫は満足げに胸を張った。

(チョロいものね。大成功だわ)

「ほう……」
コンガラが鋭い視線をこちらへ向ける。
「しかし、申請書にはギリシャの出身だと記されておったはずだが?」

「魔法の実験に失敗して、色々な世界を転々としていたんです。それで……」

「まさか、あの罪深き地、幻想郷にまで足を踏み入れたというのか? ならば、すぐに解放するわけにはいかぬ。まずは詳しく精査させてもらう。必要とあらば浄化も行わねばならん。しばらくの間、この静かなる神殿で新たな見習いとして過ごすのだ。異論はあるまいな?」

(『見習い』……迂闊だった。幻想郷の話なんて出すべきじゃなかったわね。でも、もう後には引けない。この不便な生活に見合うだけの情報を引き出せれば御の字よ。まあ、元よりこの世界に潜り込む算段だったし)

「わかりました。浄化が必要だというのなら、従います」

「その言葉、ゆめゆめ忘れるでないぞ、見習いよ!」
コンガラは厳しく言い放つと、再び小兎姫へと向き直る。
「婦警の提言も検討に値するが、そなたも精査の対象となる。話の続きは後だ」
そう言うと、コンガラは立ち上がり部屋を出て行った。

小兎姫も頷いてそれに続く。メデアもその後を追った。冷たい石のベンチで眠ったせいで、体の節々が軋む。階段を下りる足取りは鉛のように重かったが、それ以上にこの神殿の秘密への好奇心が勝っていた。

メインホールへ下り、コンガラの背を追って半円形の通路へ入る。延々と続く階段を下りきると、天井の低い、ひどく広大で薄暗い空間が広がっていた。むせ返るような独特の匂い。石の長テーブルには、青白い半透明の姿をした者たちが隙間なく座っている。額に刻まれた「罪」の烙印。間違いなく静かなる軍の兵士たちだ。背後からも無言の兵士たちが次々と流れ込み、空席を埋めていく。

(死者にすら、食糧が必要だというの……?)

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胃の腑を掻き回すような、硫黄と古い薬品が混ざり合った異臭。毒々しい色彩がマーブル状に渦巻くその液体からは、食欲をそそる要素など微塵も感じられない。カチャ、カチャという硬質な食器の音だけが不気味に響き渡り、咀嚼音も会話の熱気も一切ない。生者が決して踏み入れてはならない、霊廟の底に座らされているような圧倒的な疎外感と冷気が肌を刺す。

コンガラの姿を認めるなり、無数の亡霊たちが一斉に立ち上がり、無言で頭を垂れた。

「罪ある魂に、安らぎと静寂を!」
コンガラの重々しい声が響く。そして、こちらを振り返った。
「見習いよ、糧を摂り力を蓄えるがよい。朝食の後、そなたに勤めを与える」空いている席を顎でしゃくられ、素直にそこへ腰を下ろす。コンガラと小兎姫はさらに奥へ進み、重厚な石の扉の向こうへ消えていった。

(あの二人の動向を探りたいけれど……腹が減っては魔法も使えないわね)

向かいに座る亡霊に、目の前の鍋を指差して声をかける。
「あの、これは何ですか?」

「……食べ物だ」
虚ろな声が返ってきただけで、幽霊は再びスプーンを動かし始めた。

「それは……その、生身の人間でも口にできるものなのかしら?」
丁寧に取り繕った言葉も、もはや彼らには届かない。周囲の者たちも皆、泥のように濁った目で虚空を見つめているだけだ。

意を決して鍋を開け、粘り気のあるスライム状の液体を皿に移す。奇妙なことに、味も匂いも全く感じない。口に含んだ瞬間、飲み込む暇もなく粘膜から直接吸収されるように溶けて消えた。数口含むと、確かに丹田のあたりから熱が広がり、疲労が薄れていくのがわかる。だが、こんな無機質な流動食しかないはずの食堂で、どこからか微かに『本物の食べ物』の香りが漂ってくるのが気になって仕方がなかった。

その時、入り口付近をうろつく見覚えのある姿に気づく。受付にいた金髪の少女だ。彼女は警戒するように周囲を見回した後、コンガラたちが消えた石の扉の奥へと滑り込んだ。

(絶好のチャンスね。もし見咎められても、『迷子になった』とでも誤魔化せばいい)

席を立ち、亡霊たちの隙間を縫って石の扉へ近づく。誰もこちらに注意を払っていないことを確認し、そっと扉を開けた。
白い石材で整えられた明るい廊下。奥へ進むほど、果物や調理された肉の香りが濃くなっていく。

(間違いない。この匂い、ここからだわ……)

通路に積まれた木箱の陰に身を隠す。奥から、聞き覚えのある声が漏れてきた。

「……明羅、落ち着くのだ。『失格』とは申しておらぬ。しかし……そなたには少し休養が必要ではないか?」

木箱の隙間から覗き込むと、コンガラ、小兎姫、明羅の三人が木製のテーブルを囲んでいた。その上には、見事な果実や人間の食べるまともな食事が並べられている。

「コンガラ様! このような得体の知れぬ女を試されるのであれば、どうか我にも試練をお与えください!」
明羅が声を荒らげて食い下がる。
「悪魔など、この明羅が必ずや討ち取ってみせます!」

小兎姫が、余裕たっぷりの笑みを浮かべてそれを見下ろしていた。

「そなたと婦警を競わせるつもりはないぞ。明羅の働きは、常に比類なきものだ」

「しかし、コンガラ様は比較なさっておられるようにお見受けいたします! ならば提案がございます。あの蛇の悪魔を先に捕らえた者を試練の突破者とし、次の戦の指揮を任せるというのはいかがでしょうか!」
明羅は一歩も引かずに言い放った。

(そういえば、あの少女も入ってきたはずだけど……)
視線を巡らせると、食器棚の影に隠れるようにして立つ少女の姿があった。他の三人には全く気づかれていない。
(私以外にもネズミがいたとはね。面白くなってきたわ)

「よかろう、明羅の望み通りにしよう。婦警よ、その条件で異論はあるまいな?」
コンガラが深くため息をつく。

「ええ、構いませんわ。ただし、容疑者の情報が必要ね。身長、身体的特徴、最後の目撃場所、犯した犯罪の全容……」

「そのような詳細な情報は持ち合わせておらぬ」
コンガラは小兎姫の言葉を遮った。
「判明しているのは、悪魔が長い這いずり跡を残しているということだけだ。広大な砂漠を蛇行している痕跡もある。おそらく、巨大な蛇のような姿をしているのだろう。まずはその痕跡を追うがよい」

「承知いたしました」
明羅は硬い声で応じると、弾かれたように立ち上がった。
「ただちに出立いたします」

三人が立ち上がり、こちらへ向かってくる。息を殺して木箱の裏に同化し、彼らが通り過ぎるのを待った。足音が遠ざかると、入れ替わるように少女がテーブルへと歩み寄る。

「ふん、馬鹿みたい。どうせ、真実に気づいているのは私だけ……そう簡単には引き下がらないわ」
暗い情念の籠もった呟きを残し、青いドレスの裾を翻して少女もまた部屋を飛び出していった。

安全を確認してから木箱の陰を出て、テーブルに残されていた林檎とオレンジを素早くローブのポケットへ滑り込ませる。

(役得というやつね)

素知らぬ顔で食堂を抜け、中央ホールへと戻る。神殿の正面入り口に向かって、コンガラが歩いていくのが見えた。

「見習いよ、神殿の糧は口に合ったか? 完全に浄化されるまで、あれを食し続けねばならぬぞ」入り口で立ち止まったコンガラが振り返る。その視線の先では、明羅と小兎姫が岩の橋の手前で今にも駆け出そうと身構えていた。

「はい。お気遣い、痛み入ります」
恭しく頭を下げる。

「朝食の後で勤めを与えると約束したな。図書室の整理を任せる」

「かしこまりました」

(雑用係ね。まあ、情報の宝庫を探れるのなら悪くないわ)

「図書室は食堂の右側だ。何か不便があれば、カナに聞くがよい」
コンガラは顎で扉の奥を示し、二人の競争相手のもとへ歩み去った。

(カナ、ね。あの食えない幽霊もどき)

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神殿の巨大な扉が開け放たれ、外の荒野から乾ききった熱風が吹き込んでくる。冷え切った石壁の空気とぶつかり合い、肌が粟立つような温度差が生まれた。砂埃を蹴立てて全力で駆け出していく二人の躍動とは対照的に、扉の影に立つ少女―カナ―は、まるで舞台の袖から喜劇を見下ろす観客のように、静かに、そして冷ややかにその背中を見送っていた。

(……図書室か。この狂った箱庭の成り立ちについて、何か有益な情報が拾えるかもしれないわね。あの二人の茶番の結末も気になるけれど……まずは足場固めよ)